ると、さくら井屋の中と花遊小路を通り抜けることにしているんだ」
と言いながら、四条通へ抜けると、薄暗い小路へはいって行った。崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。「紅燃ゆる」の歌もこんな風に歌っては台無しだと思いながら、豹一は赤井のあとについて、隅のテーブルに腰掛けた。たにし[#「たにし」に傍点]の佃煮と銚子が来ると、赤井は、
「君飲めるだろう?」と、盞を渡した。
「うむ」と曖昧に返事をしたが、実は飲むのは生れてはじめてなのである。飲めないと思われては癪だと、赤井がついだのを一息に飲みほしたが、にがかった。たにし[#「たにし」に傍点]を箸でつついていると、「おい、僕にもついでくれ」と言われて、周章てて下手な手つきでついでやると、赤井は馴れた調子で、ぐっとさもうまそうに飲みほした。感心してぽかんと赤井の顔を見ていると、いつの間にか自分の盞が一杯になっていた。それもにがかった。そうして七、八杯続けざまに飲んだが、いつも吐き出したいようなにがさだった。たにし[#「たにし」に傍点]をいくら口の中に入れてもそのにがさは消えなかった。たぶん俺は変な顔をしているだろうと、豹一はそれを誤魔化すように、
「喧しい奴らだ」
と言いながら、手を伸ばして赤井の煙草を一本抜きとり、吸ったが、それで一層胸が悪くなった。
(あいつらでも酒が飲めるんだぞ! それだのにお前はなんてだらしが無いんだ? これ位の酒に胸が悪くなるなんて)
ふらふらする頭を傾けて、騒いでいる連中の方をちらと見た途端、一人の生徒が、
「おい、なんだと? 先輩だ?」と呶鳴りながら席を立って行くのが眼にはいった。
「そうだ、僕は先輩だよ」四十位の洋服を着た、貧弱な男がおどおどした容子でそう言った。
「じゃあ、何期生だ?」その生徒は昂然とズボンに手を突っ込んだ儘言った。男はすっかり狼狽して、
「先輩だよ。先輩といったのが何が悪い?」
「何期生か言って見ろ!」
返事はなかった。恐らくその男は騒いでいる三高生の機嫌を取るために、「しっかりやれ! 諸君、僕は先輩だよ」とかなんとか言ったのに違いないと、豹一は咄嗟に判断して、馬鹿な奴だと思った。むしろ役所の小役人風めいたおどおどしたその男の態度が哀れだった。が、その男よりもその生徒の方を一層軽蔑した。恐らくその男の貧弱な服装を見て、先輩とは偽だと睨んで、突っ掛って行ったに違いない。
(良い服装の堂々たる押し出しの男から先輩だと言われたのなら、たぶんぺこぺこして盞を貰いに行っているところだろう)
「言えないだろう? ざまあ見ろ! 第三高等学校の先輩だなんて、良い加減なことを言うと、承知せんぞ!」
まるで犯人に言うような言い方で、その生徒が呶鳴ると、拍手があった。すると、彼はますます得意になって、じろじろ部屋の中を見廻しながら、
「俺は官立第三高等学校第六十期生山中弦介だ!」
最期の花火を打ち揚げると、すっかり悄気て何やらぶつぶつ口の中で呟いているその男を尻眼に席へ戻った。途端に、豹一の耳の傍で、
「三高生がなんだ?」
割れるような声がした。赤井だった。
「誰だ? 呶鳴った奴は……」向うから先刻の生徒がそう呶鳴った。
「俺だ!」そう言って赤井が立とうとするのを、豹一は止めて、
「僕に任せろ」とふらふらと立って、
「文句のある奴は表へ出ろ!」そう叫びながら、外へ出て行った。その拍子にまるで地の揺れるような眩暈がして、ゲッと異様なものが胸を突きあげて来た。豹一は塀に両手を突いて、反吐を吐いた。眼の前が一瞬真っ白になり、倒れそうになった咄嗟に、
(誰も出て来ないな)と思った。「止せ! 止せ! 向うも三高生だよ」としきりに止めているらしい声が聴えた。ガラス障子のなかには濛々たる煙が立ちこめ、人々が蠢いているのを遠い舞台を見るように眺めた。すっかり吐いてしまって、暫く塀に凭れてしゃがんでいると、不思議なくらいしゃんとして来た。
誰も出て来ないと分ると、豹一は自分の行動が妙に間の抜けたものに思われて来た。赤井に先を越されたという想いと、一つにはその生徒の英雄を気取った、威嚇的な態度に対する義憤から、飛び出してみたものの、一人相撲の感があった。
(うまい時に飛び出して反吐を吐くところを誰にも見つけられなかっただけが、もっけの倖いだった)そう諦めて、豹一は再び正宗ホールのガラス障子をあけた。先刻の生徒と視線が合った。豹一はわざとその傍をゆっくり通って、元の席へ戻った。
赤井は向い側に坐っている二人連れの上品な顔をした男と前から知り合いのような顔で、盞のやりとりをしていた。
「喧嘩は止し給え」豹一が席に腰を掛けるなり、その一人がそう言って、盞を豹一に向けた。鼻の大きすぎるのが気になったが、感じの良い顔だと思った。もう一人の男が酌をしてくれた。その男は顎が尖っていた。が、べつに悪い感じの顔でもなかった。どちらも若い顔をしていたが、もう四十を過ぎているらしかった。
「君、顔が蒼いぞ」もうぐにゃぐにゃと酔っぱらっている赤井が言った。反吐を吐いたためだったが、豹一は興奮のためだと思われやしないだろうかと心配した。それで、見知らぬ男がついでくれた盞をぐっと飲みほした。
騒いでいた連中は、「第三高等学校万歳! 昭和六年度記念祭万歳!」と気勢を揚げて、乱暴に入口の障子をあけて出て行った。
「あいつらは名刺にも官立第三高等学校第何期生と刷っていやがるだろう」
豹一が言うと、鼻の大きな男は、
「辛辣だな。君達も高等学校なんだろう?」顎の尖った男と顔を見合せて、意味もなく笑った。豹一はむっとした顔をした。
「そんな変な顔をするなよ。どうも君達は気が短い。向うも若いが、君たちも若い。が驚いたね。一人が呶鳴ったかと思うと、一人が飛び出している。呼吸が合ってるね。そこが気に入ったよ」
豹一はこんな風に批評されるのを好まなかった。早く切り揚げようと、赤井に目くばせしたが、赤井はまあ良いじゃないかという顔をした。すると、顎の尖った男が、
「どうです? やりませんか?」と豹一にたにし[#「たにし」に傍点]の佃煮をすすめた。頑として黙っていると、
「遠慮はいらんよ。実のところこれはいくらでもお代りが出来るんでね」
その気取りのない調子が豹一にはちょっと気に入った。やがて、鼻の大きな男が、
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
「僕は帰ります」豹一はだし抜けに言った。
(どうせ、俺らを酒の肴にするつもりだろう? いやなこった。誰が幇間になるもんか。赤井の媚びた態度はなんだ)
意味もなくげらげら笑って、畜生! 畜生! と力んでいる赤井をきっとした眼で睨みつけた。鼻の大きな男は、
「どうして? いいじゃないですか。それとも怖い? なるほど君は未だ若いからね」
若いと言われたことが豹一の自尊心をかなり傷つけた。
「怖いことはない!」
「じゃ、ついて来給え」
渋々承知した。正宗ホールを出て、小路を抜けると、四条通を円山公園の方へ歩いて行った。右側の有名な茶屋のある角を折れて、格子戸のある家へ四人であがった。芸者が四人来た。そのうちの大柄の女が豹一を見て、「まあ、可愛い坊ん坊んやこと。おうちどこどすか?」と言った。豹一は横を向いたまま、
「大阪だ」とにがにがしく答えた。体を動かすと、また吐きそうだったからである。
「まあ大阪どっか。あてかて大阪で生れたんどっせ。さあ唄っておみやすな」
そして芸者は、テナモンヤナイカナイカ、道頓堀よ――と唄った。むろん豹一は唄わなかった。
一時間ほどして、ふらふらと赤井と一緒にそこを出た。残っている二人に挨拶も出来ぬほど意識が朦朧としていた。南座の横のうどん屋へはいって、鯡うどんを食べた。なんとなく、タヌキということが想い出された。出ると、赤井は、
「金《ゲル》を貸してくれ」と言った。ポケットから五円紙幣を掴み出して渡すと、
「君も一緒に行かんか」
「いやだ!」自分も驚くほど大きな声で答えた。赤井の行くところは大体分っていた。たぶん宮川町の遊廓だろう。いやだと答えたのは本能的なものだった。先刻の席で胸苦しくなって、吐くために芸者に案内されて洗面所へ行った時にだしぬけに経験された、唇をなめくじが這うような、焼いた蜜柑の袋をくわえるような、薄気味わるい感触が、ぞっとするいやさで想い出されるのだ。
赤井は、
「じゃあ、行って来るよ。僕を軽蔑するなよ」そう言って身をひるがえすと、川添いの暗闇のなかへ吸い込まれて行った。
豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。そして岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。大学の時計台が十時を指していた。義務を果したという安心でホッとすると疲労が来て、直ぐ床を敷いてもぐり込んだ。塾生はちゃんと就眠時間を守っていた。が、塾長の中田は暗闇のなかで目を光らせていて、豹一の口から吐出される「醜悪な臭」をかいだ。中田は無論豹一が掟を破ったことに就て、大阪の塾主へ報告すべきであると思った。が、その破り方が余りに大胆過ぎたので、ひょっとしたらこれは塾長たる自分の落度になりはしないかと思い、報告は後日に延ばすことにした。いずれ機会はいくらでもあろう。あの男のことだ! その豹一はもう前後不覚になってぐっすり眠っていた。
五
やがて五月一日の記念祭の当日になった。熊野神社から百万遍迄の舗道には到るところにポスターが貼られていた。校庭に面した教室の板塀にもクラスの名と仮装行列の題を書いたポスターがそれぞれにあった。どのポスターにも桜の中に三の字のはいった学校のマークが描かれてあった。午前十時半に式と記念講演がすむと、直ぐ仮装行列がはじまった。楽隊が雇われていた。各クラス毎で経営している模擬店がずらりと並んでいた。模擬店をクラスが経営することに就ては学校当局は最初反対していた。が、自治委員の言い分がやっと通ったのである。日頃無能だと言われている自治委員も案外なところでその役割を発揮した。
豹一は寄宿舎のデコレーションを一度軽蔑して置くのもわるくないと思った。素直に見に行くと言えないのが彼の厄介な精神なのである。入口には破れ靴やボロ布や雑巾が頭と擦れる位の高さにぶら下げてあり、その一つの赤い布には「浜口雄幸氏三高時代愛用の褌」と御丁寧に木札がついていた。
(莫迦々々しい、何も浜口雄幸の褌まで担ぐ要はあるまい)
とくぐった途端、ガーンと銅鑼の音が鳴った。一人くぐる毎に、小使部屋で誰かが鳴らしているらしかった。
(流行らぬ寄席[#「寄席」は底本では「客席」]か化物屋敷じゃあるまいし……)そう心の中で呟いて、豹一は北寮、中寮、南寮の順に各部屋のデコレーションを見て廻った。南寮五番の部屋まで来ると、「虎退治」とデコレーションの題を書いたポスターが貼りつけてありながら、ドアが閉っていた。人々はドアがなかなかあかないので、これもデコレーションの機智の一つかというつまらなそうな顔をして立去って行った。実は「西田哲学」という題で、はいると「絶対無」と書いた紙片のほかになに一つなく、ガランとしていた部屋があったのである。豹一はドアをノックして、
「赤井! 赤井」と呼んで見た。
「誰だ?」赤井の声だった。
「僕だ、毛利だ」と言うと、ドアをあけてくれた。はいって見ると、赤井は裸の
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