いことを赤井は知って、それを言ったのではなかろうか?
(俺の貧乏を嘲笑するつもりなら許さぬぞ)
 しかし、赤井の次の言葉を聴いて、豹一の心はすっかり明るくなった。
「実は僕は今日はゲルが無いんだ。質に入れるものもない。此のレインコートを入れてやろうと思うのだが、これは当分着ている必要があるんだ。彼等が怖くて郷に従うたと思われては癪だからね。君持っているなら今晩のところは頼むよ」
 豹一はちょっと赧くなって、
「持ってるよ」と言い、ポケットへ手を突っ込んで、なんと言うこともなしに母親が送ってくれたあの紙幣をさわって見た。
「親父が学生は金を持つと為にならんて言いやがって、ちょっとも送ってくれないから困るよ」と赤井は別に赧い顔もせずに言った。
「僕の親父は変な奴なんだ。柳左衛門という名前をつけやがったことはまあ我慢するとして、僕の中学生時代いつも教室へのこのこ参観しに来やがるんだ。すると、教師が僕に暗誦をさせるんだ。僕は親父が背後で見ていると思うと、あがってしまって、出来やしないんだ。クラスの奴等は僕の親父が来ていることを知っているから、クスクス笑いやがる。すると僕は一層あがるんだ。親父はつかつかと僕の立っている傍へ来ると、僕の背中をつつきやがるんだ。なぜ、暗誦して来ないんだって。そいつは教師の言う文句じゃないか。教師も困って変な顔をせざるを得んよ。止せば良いのに、親父め一週間も経つと、またのこのこ参観に出て来るんだ。おかげで俺は今日は親父が来やしないかと、毎日ひやひやして、ろくすっぽ教師の講義も耳にはいらなかったよ」
「三高へは来ないのか?」と、半分慰めるように豹一が訊くと、赤井は瞬間変な顔をして、
「遠いからだ」と狼狽した。ふと豹一は、あれ[#「あれ」に傍点]は赤井の父親ではないだろうかと思った。入学の宣誓式の時、生徒主事のG教授が長時間にわたって生徒の赤化に就て注意的訓話を述べたが、G教授は物凄い東北弁で、喋っていることの意味がちっとも分らなかった。G教授の訓話が終った途端、うしろの父兄席にいた一人の紳士がいきなり立ち上って、「あなた今何を喋られたのですか。お言葉の意味が少しも分らないので、生徒はじめわれわれ父兄は不安且つ迷惑である。要旨をもう一度明瞭に言っていただきたい」と顔に青筋を立てて言った。「馬鹿! 坐れ」という者もあり、笑う者もあり拍手もあった。その紳士が赤井の父親ではないだろうかと思ったのである。訊いて見ると、果して赤井は、「そうだ。僕の親父なんだ」と眉毛をたれた情けない顔をした。その表情を見ると、豹一は、赤井の突飛な行動もあるいは此の父親のことが原因しているのではないかと思った。そう言えば、赤井の父親も向う見ずなところがある。すると、赤井が妙に気の毒になって来た。
(しかし……)と豹一は思った。(とにかく赤井の父親は赤井をその独特の方法で愛している。ところが俺の現在の父親と来たら、いまでも俺が高等学校から追い出されたら、俺を質屋へ使いに出す肚でいる。どっちが不幸か分るもんか)
 豹一は父親に愛されている赤井と、憎まれている自分とどっちが幸福かと、大人じみた思案をした。が、やがて寺町通の明るい灯がぱッと眼にはいると、豹一はもうそんな思案を中断しほうッと心に灯をともした。
 寺町二条の鎰《かぎ》屋という菓子舗の二階にある喫茶室へ上って行った。蓄音機も置かず、スリッパにはきかえてはいるような静かなその喫茶室が三高生達の記念祭の歌と乱舞で乱暴に騒がしかった。豹一と赤井はわざとそんな連中を避けて、窓から東山の見える隅のテーブルへ腰掛けた。女給仕に珈琲を註文した赤井は、ちらとその女の背後姿を見ながら、
「あいつらはなぜこんなに騒いでいるか知っとるか」と豹一に訊いた。
「上品な喫茶店だから、わざと騒いで見たいんだろう」
 騒いでいる連中の一人が、子供づれの夫婦のテーブルに近づいて帽子を取ると、「いや、ガンツ、ガンツ(―非常に―)済みません」と、ぐにゃぐにゃと頭を下げながら、媚を含んだ声で言って、再びまた騒ぎの群へ飛び帰って行くありさまをにがにがしく見ながら、そう言うと、赤井は、
「それもある。ところが、此の喫茶店は代々三高生の巣で、しかもここの息子がいま三高の理乙にはいっているから、少しぐらい騒がなきゃ損だと思ってやがるんだ。それだけじゃない。今ここへ女が来たろう。お駒ちゃんて言うんだ。皆そいつに気があるもんだから、わざと騒いでいやがるんだ。黙っていても口説けない者が騒いだって口説けるもんか」
 赤井は痩せた頬に冷笑を泛べた。なるほど、赤井が言った「お駒ちゃん」は皆の対象となっているらしく、騒ぎながらちらちらお駒の顔を見ているのが、豹一にもありありと分った。なかにはわざと酔っぱらった振りをしてお駒にしがみついて行く奴もいる。すると、お駒はげらげらと笑いながら、すっと奥へひっこんで、また顔を出す。豹一はそんなお駒の仕草までが癪にさわった。しかし、いずれ何かの必要もあろうかと、その女の顔はしかと記憶えて置くことにした。じろじろ見ていると、お駒は奥へ入ったかと思うと、お茶を持って直ぐに豹一のテーブルへ来た。赧い顔をしていた。豹一は鼻糞をほじっていた。
 十分程してそこを出た。出しなに柱時計を見ると、秀英塾を出てから丁度三時間経っていた。外出時間も丁度切れたと思うと、豹一は重苦しい心がすっと飛んでしまい、足取りも軽かった。「吸え」と赤井が出してくれた「ロビン」という煙草を吸った。が、はじめて吸うので、むせていると、
「こんな軽い煙草にむせる奴があるか」と赤井に言われた。よし、いまに強い煙草が平気で吸えるようになってやるぞと自分に言い聴かせて、何という煙草が強いのかと眼をきょろつかせていると、赤井は、
「ロビンは十銭なんだ。チェリーも十銭だが、チェリーよりもうまいぞ」と通らしく言い、
「ロビンはコマドリか。おい、『コマドリ』へ行こうか。あそこも三高の奴らで一杯だな。正宗ホールも一杯だろう。さてどこへ行こうか」
 三条通から京極へ折れて行こうとすると、
「待て、待て」と赤井が止めた。どこへ行くつもりなのかと立止ると、赤井は豹一をひっ張って、「此処を通ろう」とわざわざ三条通の入口からさくら井屋のなかへはいり、狭い店の中で封筒や便箋を買っている修学旅行の女学生の群をおしのけて、京極の方の入口へ通り抜けてしまった。豹一があっけに取られていると、赤井は、
「これが僕の楽みだ。ちっぽけな青春だよ」と、赧い顔をして言ったが、急にリーダーの訳読でもするような口調になって、
「さくら井屋には旅情が漲っている。あそこには故郷の匂いがある。なあ、そうだろう?」と言った。豹一は赤井も気障なことをいう奴だと思ったので、返事をしなかった。すると赤井は何か思いついたらしく、
「実は此の間僕の妹も修学旅行に京都へ来たんだよ。ところが、妹の奴さくら井屋の封筒が買えなくなったといって、泣き出しゃがるんだ」
 赤井の妹ならば、さぞかしひょろひょろと痩せて背の高い、眼の落ち込んだ、びっくりしたような顔の娘だろうと、豹一はふと微笑した途端に、胸が温った。赤井の言った旅情というものかも知れなかった。妹が兄のいる京都へ修学旅行に来るというそのことが、妹をもたぬ豹一の心を思い掛けず遠く甘くゆすぶって来たのだった。夜汽車の窓を見る気持に似ていた。豹一は晩春の宵の生暖い風を頬に感じた。
「何故妹の奴封筒が買えなかったか知っているか?」不意に赤井が怖い顔をして訊いて来た。そして豹一の返事を待たずに、
「僕が妹の金を捲きあげてやったからだ」そう言って、にわかに赤井の顔が険しくなって来たかと思うと、不意に長い舌をぺろりと出し、
「うわあ!」とわけの分らぬ叫び声をあげた。驚いて豹一が見ると、赤井はフラフラダンスの踊子のように両手を妖しく動かせて、どすんどすんと地団太を踏みながら、長い舌をぺろぺろ出し入れしているのだ。そこが土の上ではなかったら寝ころんで暴れまわりかねない位のありさまだった。擦れ違う人々はびっくりした眼を向けていた。が、赤井の発作は直ぐ止んだ。そして、小売店、食物店、活動小屋、寄席などが雑然と並び、花見提灯の赤い灯や活動小屋の絵看板にあくどく彩られた狭くるしい京極通を歩いて行ったが、ふとひきつるような顔になると、
「どうも僕は三日に一度あんな発作が起って困るんだ」と言った。
「何か恥しいことを想い出した時だろう?」満更経験のないでもない豹一がそう言うと、
「そうだ。どうやら脳黴毒らしい」赤井は簡単にそう言い放ったが、直ぐ心配そうな顔になると、最近さる所へ「肉体の解放」に行ったが、とても汚ならしい女だったから、どうやらジフレスを貰ってもう脳へ来ているかも知れないと、しょんぼりした声で言った挙句、
「僕の青春はもう汚れているんだ!」と、これはわざと悲痛な調子で言った。豹一はそんな赤井の図太い生活にふと魅力を感じたが、僕の青春云々が妙に赤井の気取りのように思われたので、「心配する位なら、行かない方が良いんだ」と突っ離すような、冷かな口を利いた。すると赤井は、「そうだ。そうだ」と苦もなく合槌を打って、「僕は心配なんかしていないぞ。ジフレスがなんだ。そう容易く罹るもんか。昨日僕はちょっと医学書を覗いてみたが、脳へ来るのには五年や十年は掛るらしいんだ。僕の頭は未だ健全なんだ」自分で自分の言葉を打ち消した。
(赤井はえらい男だが、自分の行動を誇張して人に喋りたがるのが欠点だ。つまりデカダン振るのだ。俺なら黙って行《や》る)
 豹一はそう思うと、はじめて自分と赤井との違うところが分ったような気がした。が、実は豹一も元来が自分の行動の効果が気になる質であった。たいして赤井と違いはしない。だからこそ、赤井の中にある虚栄に反撥したくなるのだった。豹一は赤井という鏡にうつった自分の姿に知らず知らず腹を立てていたのだ。
「そうだ、健全らしいよ」豹一はちょっと皮肉って見た。赤井は敏感にそれを察した。大袈裟に、
「僕の行為は軽蔑に値するか知らないが、しかし、肉体の解放は極く自然なんだ。不自然な行為のかげにこそこそ隠れているより、大胆に自然の懐へ飛び込んで行く方が良いんだ。汚れてもその方が青春だ。僕のように敢然と実行する勇気のない奴は、僕を軽蔑する振りで自分の勇気の無さを甘やかしていやがるんだ」
(自分の行為を弁解しているのだ)と豹一は思った。が、実のところ、彼にはこのようにうまく理窟が言えなかった。だから、彼は、
(こいつがこんなに弁解ばかりしているのは、気の弱いせいだ)と思うことにした。彼は冷笑的に黙々としていることによって、やっと赤井の圧迫から脱れられると思った。
(こいつはこんな自己表現にやっきとなっているが、俺は一言も今晩の計画に就ては喋っていないぞ)
 そう言い聴かせることによって、豹一は黙っている状態に意味をつけた。しかし、豹一自身気がついていないことだったが、彼がそんな風に黙っていたのは、なにか奇妙な困惑に陥いっていたからでもあった。彼は赤井の興奮に強いられて、その共鳴を表現することを照れていたのである。芸もなく赤井と一緒に興奮して、青春だ、青春だと騒ぐのが恥しいのである。つまり彼は自分の若い心に慎重になっていたのだ。美しい景色をみて陶酔することを恥じる余り、その景色に苛立つのと同じ心の状態で、彼は赤井の若さに苛立っていたのである。豹一は告白という、青年につきものの行為を恥しく思う男だったのである。彼のように興奮にかられ易い男が、他人の興奮に苛立つのはおかしいと人は思うかも知れないが、しかし豹一の興奮には多少とも計算がまじっていた。だから彼は他人の若い興奮の中にも見えすいた計算を直ぐ嗅ぎつけてしまい勝ちだった。
 赤井は豹一が少しも自分に共鳴しないのを見て、酔わす必要があると思った。豹一だけが自分の心を解してくれる唯一の男だと思っていたのである。丁度京極の端まで来ていた。赤井は先に立って、花遊小路の方へ折れて行き、
「この小路の玩具箱みたいな感じが好きなんだ。僕はいつも京極へ来
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