君のクラスの沼井と、それから四年F組の播摩だ」
沼井と聴いたからにはもう豹一は平気で居られなかった。いきなりぶるっと体が顫えた。
(なあんだ。沼井も学資を施して貰うのか。沼井が落第して、俺が合格するとなればこんな気持の良いことはない)そう思うと、元来が敏感に気持の変り易い彼はふと高等学校へ行ってみようかという気になった。母親に学資を苦面させるわけではない。それに、どうせ中学校を出ても、家でこき使われるか、デパートの店員になるよりほかはないのだ。(塾へはいれば安二郎の顔を見なくても済むのだ)それで肚が決った。しかし彼は即座に、じゃあ、そうさせていただきますとは言わなかった。行きたくないと言って置きながら、直ぐ掌をかえすように、行かせて貰いますと飛びつくのは余りに不見識で、浅ましい。
「校長先生のお言葉ですし、一ぺん家の者に相談してみます」こう言った。ここらに豹一が余り人から好かれないところがある。しかし、本当に母親だけに相談する義務はあった。
「そうか。じゃあ相談してみたまえ。なるべく行くよう。中学校だけで止めるのは惜しいからね」
「僕もそう思います」
帰って母親に、「人の施しを受けて高等学校へ行く可きかどうか」と真剣な顔で相談した。お君は、「私《あて》は如何《どない》でも良え。あんたの好きなようにし」しかし、「あんまり遠いところへ行かんといてや」
京都の三高へ行くことに決めた。翌日校長先生に呼ばれると、
「校長先生のお言葉ですし、K中学校の名誉のために見事合格して見よう思います」こんないや味な返事をした。が、その言葉は概して校長の気に入った。
「君はあんまり品行方正とは言えんが、とにかく出来るから推薦したのだ。しっかりやってくれ給え」
豹一は沼井が三高を受けるのか、一高を受けるのかとそのことばかり考えていたので、校長の言葉も不思議に苦にならなかった。
豹一はその日から猛勉強をした。心に張りがついた。彼の自尊心はその坐り場所を見つけることが出来たのである。(俺が高等学校の帽子を被る日に、一ぺん紀代子に会っても良い)と、思った。(しかし、紀代子は俺の学資の出所を見抜くかも知れない)
豹一は翌年の四月、三高の文科へ入学したが、だから紀代子にだけは未だ会わす顔はなかった。
四
夕飯が済むと、豹一はぶらりと秀英塾を出た。塾を出ると道は直ぐ神楽坂だが、豹一は神楽坂を避けて、途中で吉田山の山道へ折れて行った。神楽坂の上にあるカフェの女が、二、三日前変な眼付で彼を見たからである。
「まあ、見とおみ、子供みたいな三高生が行きはる」
豹一は未だ十七歳だった。その年齢の若さを彼は気にしていたのである。そんな若さで高等学校へはいる者は少いのだと己惚れることも出来たが、しかし子供っぽく見えるということはやはりいやだった。髭を伸ばしてうんとじじむさくなってやろうと思っても、一向に生えてくれないのだった。最近ニキビが二つほど生じたので、少し嬉しかった。(十七で三高だから秀才か? いやなこった)彼も中学校にいた頃とは随分変った。前は首席になるために随分骨を折ったものだった。が、秀才とは暗記力の少し良い、点取虫の謂いではないか? 彼は同じ秀英塾に寝起している三高生を見ると、もう秀才というものに信用が置けなかった。塾生は十人いた。何れも四年からはいった秀才ばかりである。ところが、彼等はただ頭脳の悪い勤勉な生徒に過ぎないのだ。暗記力は良い方だといってもよいが、しかし彼等のように飯を食う間も暗記していれば、記憶《おぼ》えられぬ方が不思議だ。教室では教師の顔色ばかりうかがっている。教師の下手な洒落をもノートにうつす始末だ。教師が教室で講義に飽いて雑談すると、「それ試験に出ますか」と質問するていの点取虫だ。おまけに塾の掟を何一つ破るまいと、立居振舞いもこそこそしている。時に静粛を破って寮歌をうたったりするが、それも三高生になれたという嬉しさの余りのけちな興奮だ。
(だいいち秀英塾だなどと名前からしていやだ)
塾といっても、教師は居らず、ただ三年生の中田が塾長の格で塾生を監督し、時々行状を大阪の「出資者」(――と豹一は呼んでいた――)に報告するだけだった。塾生の外に賄夫婦がいるだけで、昔通りの合宿所とたいして変りはなかった。が、掟だけは厳しい。
例えば塾生は絶対に塾以外の飲食を禁じられている。学校のホールで珈琲ものめない。無論昼食は持参の弁当である。それも一人々々が持参するのではなく、十人分の飯を入れた櫃と、菜をいれた鍋を登校の際交替で持って行くのである。豹一は風呂敷に包んだ櫃を背負うて行く学校までの道が、あの質屋からの帰り道よりも辛かった。
それもたとえば短艇部の合宿生が面白半分に担いで行くのだったら、いや味な無邪気振りながら、未だ人の眼にはましだ。しかし、学資を支給されている塾生がそれを担いで行くのは、まるで犬が自分の食器をくわえて歩いているようで浅ましく恥しい。「出資者」の好みだろうが、まるでそれは、「俺は施しを受けているのだ」という宣伝のようだった。塾生がホールへ顔出ししないということで、あいつらは聖人面の偽善者だという眼で見られていることに気が付くと、豹一はある日敢然としてホールで珈琲をのんだ。
尚、塾生の夕飯後の散歩は一時間と限られていた。午後七時以後の外出は、だから特別の事情のない限り許されぬのである。
(この掟を破る義務があるかも知れない!)吉田山の山道を歩きながら、豹一はふとそう思った。すると、異様に体が顫えて来た。何か思い切ったことをする前のあの興奮だった。
(しかし、なぜそんな義務があるのだろうか?)
未だそれを実行する勇気が出なかったから、彼は詭弁めいてそんな疑問を発した。偽善者と言われている他の塾生と同列に見られたくないからだろうか? それとも主人に尾を振るのがいやなためか? 塾長の機嫌を取りたくないためだろうか? ――この考えは彼の気に入った。ともあれ彼は「出資者」への感謝ということを知らぬ忘恩の徒だった。彼がこれまで感謝したのは母親にだけだった。
(そうだ!)といきなり豹一は呟いた。(俺が掟を破る義務を感ずるのは、誰もそれを破る勇気のある奴がいないからだ!)
そう思いつくと、彼ははじめて決然として来た。京都特有の春霞のなかに、キラキラと澄んだ光で輝いている四条通の灯が山の上から眺められた。その明るい光がほのぼのとしたなつかしさで自分を呼んでいると、大袈裟に思った。
(そうだ、四条通へ行こう。あそこなら一時間では帰れぬだろう。掟を破るのはいまだ)
豹一はその決心を示すように、白線のはいった帽子を脱いで、紺ヘルの上着のポケットへ突っ込んだ。(なんだ。こんな帽子)
彼は塾生の誰もが三高生であることを誇りとして、銭湯へ行くのにも制帽を脱がぬのをひそかに軽蔑していたのである。人一倍虚栄心の強い豹一がそんな制帽に未練をもたぬとは、彼も相当変ったのである。しかも京都では三高の生徒位、「もてる」人種はいないのではないか。彼は腰につるしていた手拭をとってしまった。
(これはなんのまじないだ! 三高生の特権のシンボルか)
つまり、彼はその特権が虫が好かないのだった。
豹一は吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼出されてあった。はいって自分宛の手紙を受け取った。手紙は母から来たもので、彼は塾長に知れることを警戒して、いつも学校宛に手紙を送って貰っていたのだった。案の定、五円紙幣が二枚、べったりと便箋にはりつけてあった。為替を組むことを知らないのである。お君は豹一が塾で授業料や書籍文房具代のほかは月一円の小遣しか貰っていないと知ると、内職の針仕事で儲けた金を豹一に送って来るのだった。そのため豹一は小遣には困らなかったが、そのたびに胸を刺される思いがした。
豹一はひとけの無いグラウンドに突っ立って紙幣を便箋からはがしてポケットへねじこんだ。手紙はあとで読むことにした。何か母親の手紙を読むのが怖いのである。暗くて字が読めぬのを口実にした。
グラウンドの隅に建っている寄宿舎はわりに静かだった。皆んな夕食後の散歩に出掛けたらしかった。記念祭が近づいたので誰もそわそわして落ち着かず、新入生の歓迎コンパだと称して毎晩のように京極や円山公園へ出掛けて行くらしく、その自由さが豹一には羨しかった。
ふと振り向くと、東山から月がするすると登っていた。それが豹一の若い心を明るい町の方へ誘うようだった。その左手の叡山には、ケーブルの点々と続いた灯が大学の時計台の灯よりもキラキラと光って輝いていた。校庭の桜の木は既に花が散り尽し、若葉の匂いがした。暗いグラウンドに佇んでいると、いきなり肩を敲かれた。見ると、同じクラスの赤井柳左衛門だった。赤井柳左衛門は寄宿舎にいるんだなと、途端に豹一は思った。
赤井はその名前が変挺なので、誰よりも先にクラスで存在を認められた。が、豹一はもっと違ったことで彼の存在を知った。赤井は教室でもっとも大胆に大きな声で笑う男だった。それも他の者と一緒に笑うのではなく、誰も笑わない時にいきなり大声で笑い出すのだった。例えば教師がこっそり欠伸を噛み殺しているのを見つけると、彼の笑いが皆を驚かすのだ。そのためには教師の講義もろくにノートせず、教師の動作に注意を配っている必要があるわけだと、ある日豹一は自分が笑おうとした途端に彼に先を越されて、すっかり敬服してしまったことがある。その前の日も、独逸語の時間にいきなり赤井は席を立つと、物も言わず教室を出てしまった。それで覚えていた。
「おい、何しているんだ? こんなところで――」
赤井は顔中に微笑の皺をつくりながら言った。思い掛けず赤井の顔を見たことで、豹一はすっかり嬉しくなった。
「町へ行こうかどうしようかと考えているんだ」
「行こうか京極、戻ろか吉田、ここは四条のアスファルトだな」と、赤井は歌うように言って、「僕も行こうと思っていたところだ。どうだ、一緒に行かんか」
「行こう」
赤井を見たので、豹一は今夜の計画が容易く実行出来ると思った。寄宿舎の横の小門を出て、電車道伝いに近衛通の方へ肩を並べて歩きながら、豹一は、
「君は何故皆んなと散歩に行かなかったんだ?」
と訊いた。すると、赤井は急に背が伸びたような歩き方になって、
「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ!」吐き捨てるように言った。そして、暫く黙っていたが、ふと引攣るような微笑を顔に泛べると、
「昨日僕は寄宿舎の連中に撲られたんだ。レインコートを着ているのが生意気だというわけさ」
なるほど赤井は紫色のレインコートをいまも着ている。
「なにも三高生が黒いマントを着て、薄汚い手拭をぶら下げて、高い下駄をはいて、蛮からな声で呶鳴って、みやびやかな京の町の風情を汚さなければならないという法はないよ。だから僕はわざとレインコートを着てやったのさ。彼等の蛮カラ振りは心からのものじゃないんだ。ありゃ見栄だよ。三高生という看板をかついで歩いているだけだよ。君は帽子を被っていないね。君は良いところがあるよ」赤井は上ずった声でそう言って、僕も脱ぐよと帽子を脱いだ。赤井に真似をされたので豹一は簡単に自尊心が温まった。
荒神口の方へ道を折れて行った。赤井はなおも興奮して一人で喋った。
「彼等は郷に入れば郷に従えといいやがるんだ。それは僕も知っている。しかし、彼等が郷に従うのは彼等の無気力のためだ。彼等の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」
豹一はふと中学生時代沼井からその言葉を言われたことを想い出して、苦笑した。にわかに赤井が自分の血族のようになつかしくなって来た。あの時、自分は撲られたが、赤井も撲られたのだ! しかし府立一女の寄宿舎の前まで来ると、急に豹一の顔色が変った。
「君|金《ゲル》持ってるか」と赤井に突然訊かれたのである。豹一は此の言葉に腹を立てるべきかどうか、ちょっと思案した。秀英塾の塾生は月に一円しか小遣を支給されな
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