、頭の底が静まって、放心したような快いけだるさが感じられた。食べなれた漬物の味もなつかしかった。食事が終ると、豹一は再びオーバーを着た。
「どこへ行くねや?」
「社へ金もらいに行くねや」
「真っ直ぐ帰っといでや」
「大丈夫や」そう言って、家を出た。
北浜二丁目で電車を降りて、東洋新報のビルの方へ歩き出しながら、豹一はさすがに浅ましい気がした。安二郎に渡す必要がなければ、おめおめ日割勘定のサラリーを貰いに行かないだろうと、思った。
ビルの前の掲示板に、その日の夕刊が貼出されてあった。それをちらっと見ると豹一はもはや自分がここの社員ではないということがはっきりと意識され、こそこそと玄関をくぐった。
会計へ出頭して、先月の中頃に退社したものだが、半月だけはたしかに出勤した故、もしや規程でその日割勘定でもらえることになっているのだったら、いま受け取りたいのだがと、半泣きの顔で早口に言うと、会計係は名前をきいて、
「あ、君のサラリーまだだったね。君、やめたの?」
と、言いながら、褐色の俸給袋を渡してくれた。毛利豹一殿と殿をつけて表に書いてあるのを、なにか不思議なくらい鄭重に扱われた気持で気持よく見ながら、玄関を出てから、封を切ってみると、一月分のサラリーがそっくりそのままはいっていた。
豹一はふたたび会計のところへ戻って、なにかの間違いではないかと言った。
「さあ。僕にはわからん、君、まだ辞職届を出してへんかったのとちがうか。届が出てなかったら、こっちは辞めてないもんと認めるさかいな。一月分渡さんならん。しかし、まあ、多いよって、文句はないやろ」
「そんなら、僕はまだ馘首になっていないんですか。もう半月も無断で休んでるのですが」そうきいていると、うしろから不意に、
「気の弱い奴だな」声がした。振り向くと、土門が前借の伝票をもって立っていた。「そんなことで新聞記者が勤まるか。半月ぐらい休んだかて、なにが馘首になるもんか。君、撲られて気絶したんだろう? 一月ぐらい入院して、当り前のところだ」そう土門は言った。
「しかし、……」そのために「中央新聞」に書かれて、社に迷惑を掛けたのだから……と、言うと、土門は、会計係と前借のことで押問答しながら、
「うちの社はそんなことで馘首にするような水くさい社とちがう。水くさいのは会計だけや」背中で言って、「さあ、編輯長に挨拶して来給え。君の姿が見えんから、えらい淋しがっとる。奴さん、君に気があるんだよ。用心し給え」そしてまた会計係とぶつぶつ押問答をはじめた。
しかし、豹一は動こうともしなかった。なぜか編輯長に会わせる顔がないと思った。
「さあ早く行った、行った。行くなら早い方が良いぞ。じらすのは悪い。君のにおいがもう二階までにおってるからね。奴さん気が気じゃないよ。君のように、そうものごとにいちいちこだわってると、北山みたいに頭がはげあがるよ」
土門に言われて、豹一は、(そうだ。このまま編輯長に会わずに帰るのは、かえって失礼になる。たとえ辞めるにしても一応断ってからにするのが礼儀だ)と、思いながら、やっと二階への階段をあがって行った。
その気の弱さと紙一重の裏あわせになっている豹一の気持から推して、普通なら、黙ってしまうところだった。そしてお互い気まずい想いをし、あげくは、相手が怒っているだろうと気をまわして、その必要もないのに敵愾心すら抱くような破目になるところだった。だから、そのように編輯長に会う気になれたことは、豹一にとっては嬉しかった。
果して結果はよかった。編輯長は豹一の顔を見るなり、
「どないしてたんや? えらい心配してたんやぜ。君、物凄い立廻りやった言うことやな」笑いながら言った。
「はあ。そのことでお詫び……」と、豹一が言いかけるのを、終いまで言わさず、
「構へん。構へん。気にしなや。よその新聞に書かれたぐらいで気にしたらあかん」
「でもあんな風に書かれましたら、……」
「どない書きよっても構へんやないか。君はなにか、中央新聞の記事を認めるのんか。中央新聞の威力におそれを成してるのんか。君は中央新聞の廻し者とちがうやろ? そやろ? そんなら、あんな記事黙殺したら良えやないか。それよりうちの新聞にひとつ良え記事書いてえな」その言葉で、馘首ではなかったことがはっきりわかったも同然だった。
豹一はこれまであらゆる人間を敵愾心の対象にしていた。人を見れば泥棒と思えのでん[#「でん」に傍点]で、人さえ見れば自尊心を傷つけて掛って来るものと思って、必要以上に敵愾心を燃やしていたのである。
ところが、そうした編輯長の大阪弁まるだしのとぼけた話し振りに接していると、なにかしみじみとした雰囲気に甘くゆすぶられる想いで彼は敵愾心に苛立っている日頃の自分の醜さに恥しくなった。豹一は泣きたいぐらいの甘い気持で、編輯室を辞した。
外に土門が待っていた。
「どうだった?」
「馘首じゃなかったです」そう言うと、土門は、
「そうだろう? おれの言うことに間違いはないだろう? 感心したろう?」
「はあ、感心しました」
「二円貸してくれ」
この際、こんな風に金を借りられることもなにか気持が良かった。
「ああ」軽く答えて、俸給袋を取りだしながら、すっかり心が軽くなっていた豹一は柄にもない冗談をふと言ってみたくなった。
「あのね、土門さん。お貸ししますがね。この前の借金はあれはもう何年ぐらいあとでかえしていただけますか?」
土門の手に金を渡しながら、そんな拙い冗談を言った。思い掛けない豹一のそんな冗談に土門は瞬間あっという顔を見せたが、さすがに、
「じゃあ、とにかく内金を入れて置こう。さあ、二円かえしたよ。帳面から引いといてくれ給え」今豹一から受け取ったばかしの金を、再び豹一にかえした。「ところで、その金で飯を食おうじゃないか」
「食いましょう」豹一はさすがは土門だと、げらげら笑いながら、言った。
支那料理屋を出ると、あたりはすっかり黄昏の色だった。豹一はそのまま土門と別れて帰るのが惜しいというより、ひとりになって孤独な気持のなかに閉じこもるのが怖かった。
「どうです? 活動でもみませんか?」豹一は土門を誘った。
「よし来た」
千日前へ出た。活動小屋の看板を見あげて歩きながら、土門は片っ端から演し物をこきおろした。弥生座の前まで来ると、土門は、
「東銀子どうしたか、君知ってるか?」と、訊いた。
知らないと答えると、土門は、
「失踪したんだ。行方不明なんだ。余り皆んながひどい目に会わせやがったんで、到頭小屋を逃げ出したんだ。悲しいこった。――ところで、このことでいちばん悲観してるのは、いったい誰だと思う?」
「北山さんでしょう?」
「半分当った。じつは、このおれもだ。いや、案外君もその一味かも知れんぞ! あ、は、は、……」土門の笑い声が寒空に響くのを、豹一はしょんぼりした気持できいた。
ある三流小屋の前まで来ると、豹一ははっと顔をそむけた。村口多鶴子の主演している古い写真がセカンドで掛っているのだった。絵看板のなかで、あくどい色に彩られた多鶴子の顔がイッと笑っていた。こそこそと通り過ぎようとすると、土門が、
「おい、君の恋人の写真やってるぞ! 見ようじゃないか」と、引き止めた。
豹一は怖い顔をして、切符売場へ寄って行った。
「切符はいらんよ」土門が言った声も、殆んどきこえなかった。
黒い幕をあげて、なかへはいると、いきなり多鶴子の声だった。顔だった。肢態だった。幅のひろい、しかし痩せた肩をいからせ気味に、首をうしろへそらして、うっとりとした眼で、男に取りすがり、
「…………」
なにを言ってるのか、豹一にはききとれなかった。涙がいっぱいの気持だった。なまなましい多鶴子の肢態の記憶が豹一の胸をしめつけていた。痛いような嫉妬が、多鶴子の白い胸のホクロひとつにまで哀惜を覚える心とごっちゃになって、豹一は身動きもせず、じっとスクリーンを見つめていた。
だんだんたまらなくなってきた。
写真のなかの多鶴子はピストルを握って、男に迫った。
「こりゃ。良きじゃね」
土門が豹一に囁くために、ふと横を向くと、いつのまにか豹一の姿が見えなくなっていた。
五
小屋を出るとすっかり夜だった。盛り場の灯がチリチリと冷たく、輝いていた。
豹一は薄暗い電車通に添うて、谷町九丁目の方へ帰って行った。
下寺町の坂下まで来ると、急にぱっと明るくなった。停留所の前のカフェのネオンが点滅しているのだった。
うなだれていた顔をあげて、ふとその方を見ると、真っ白に白粉をつけて、カフェの入口に立っている女の視線と打っ突かった。
「お兄さん。おはいりやすな」女は眼のまわりに皺をつくって、笑った。その笑いがネオンの色に、赤く染まり青く染った。
豹一はあわてて視線をそらし、寒々とした気持で坂を登りかけたが、だしぬけに、
(あの女を口説いてやろう)と、変なことを思いついた。
豹一はひきかえして、カフェのなかへはいって行った。入口に立っていた女が傍へ来た。
豹一はぱっと赧くなった切りで、物を言おうとすると体がふるえた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、すべての女に対する嫌悪と復讐の気持に凄んだ表情を、交互にその子供っぽい美しい顔に泛べながら、豹一はじっと女を見据えていた。
その夜、その女は豹一のものになった。自分から誘惑して置いて、
「お前は馬鹿な女だ」と、言ってきかせ、醜悪に固くなっている女のありさまを、残酷な快感を味いながら、じっと見つめた。そして、女をさげすみ、自分をさげすんだ。女は友子といい、豹一より一つ年下の十九歳だった。初心だが、醜い女だった。
「こんなことになったら、もうあんたと別れられへんわ」乾いた声で言った。なにか哀れだった。
豹一はふと、多鶴子もこんな哀れなありさまを矢野に見せたことがあるのだろうかと、辛い気持で見ていた。
「捨てんといてね」友子は何度も言った。そして、豹一の膝に頭をくっつけたまま離れなかった。膝が熱くなって来た。
死んだように生気のない頭髪を、豹一はちょっと触ってから、いきなり友子を突き離した。
それきり、友子に会わなかった。
三月経った。
ある日、豹一が日本橋筋一丁目の交叉点を横切っていると、うしろから、女の声で呼び止められた。振り向くと、友子が着物の裾を醜くみだして、追って来るのだった。はっと立止ったが、信号が黄に変っていたので、豹一はその気もなくどんどん横切ってしまった。なにか逃げているような気がした。
友子は信号にかまわず横切って来た。
「あんた探してたんやわ」傍へ来ると、友子はもう涙ぐんでいた。
近くの木村屋の喫茶店へはいった。ソーダ水のストローをこなごなに噛み千切りながら、友子は妊娠している旨豹一に言った。
豹一ははっとした。友子は白粉気なくて、蒼ぐろい皮膚を痛々しく見せていた。唇に真赤に口紅がついていたが、それが一層みすぼらしく見えた。好みのわるい小さなマフラを、羽織の紐の下へ通して掛けていた。
豹一はふと、
(ショールを買ってやろう)と、思った。豹一は友子と結婚した。
谷町九丁目の路次裏に二階を借りて、豹一は毎朝新聞社へ出掛けた。
その年の秋、豹一は見習記者から一人前の記者に昇進した。従って、五円昇給した。友子はそれを機会に、豹一に頭髪を伸ばすことをすすめた。
豹一の頭髪が漸く七三にわけられるようになった頃、友子は男の子を産んだ。産気づいたことが、母親の声で新聞社へ電話された。
豹一は火事場に駈けつけるような恰好で、飛んで帰った。産婆が来ていた。
階下の台所を借りて湯をわかしていた母親は、豹一の顔を見るなり、
「はよ、二階へ行ったりイ。両方の肩をしっかり持ってたるんやぜ」と、言った。
豹一は友子の枕元に坐って、友子の肩を掴んだ。友子は、苦しそうに、うん、うん、うなっていたが、たまりかねたのか、豆絞の手拭をぎりぎりと噛み出した。
陣痛がはじまっていたのだ。友子の眼のふちは不気味なほど黝んでいた。豹一は、じ
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