めの話はついているんだ。どうだ? これから会社の人に会おうじゃないか」
「ええ」
 二人はかき船を出て、車を拾った。
 そして、レコード会社の人に会いに行った――かどうかは、説明の限りではない。少くとも豹一にはどうでも良いことだった。もはや彼にとっては、たとえ多鶴子が矢野と会うたのは仕事や人気のためだとわかったところで、なんの気休めにもならないのだ。むしろ、そうだとはっきりわかれば多鶴子の肉体の悲しみにたえきれぬ想いがするところかも知れぬ。かえって、浮気心で矢野に会うていてくれる方が助かるのだった。
 豹一は悲痛な顔をして、暫く自動車の行方を見送っていたが、やがて魂の抜けたような歩き方でとぼとぼと橋の方へ引きかえした。
 橋を渡ってしまうと、あたりはぱっと明るかった。その明りで豹一は財布のなかを調べた。そして、行き当りばったりのスタンドバーでカクテルを飲んだ。
 急に酔がまわって来て、足が頭が体全体がふらついた。
 御堂筋で車を拾った。がっくりと首をたれながら、
「新世界ラジウム温泉横!」
 その言葉と同時に、シイトの上に打っ倒れて、反吐を吐いてしまった。
(あ、汚してしまった)と、後悔したが、運転手に謝る気も起らぬほど動物的な感覚に意識がしびれてしまっていた。
 ラジウム温泉の横で車を降りて、軍艦横町へふらふらとはいって行くと、ききおぼえのある声がふと耳に来た。
(土門の声だな)
 いつか一緒に行った店の暖簾をくぐると、はたして土門と北山がいた。路次まできこえるような大きな声で呶鳴っていたところを見ると、どうやら北山を掴えて議論をしていたらしかったが、土門は豹一の姿を見ると、急に話をやめて、
「や、珍客! 珍客! どないしたはりましてん? いったい、ちょっとは顔見せなはれな。いや、ここじゃないよ。社の方でっせ。――とにかくまあ一杯いこう!」上機嫌な顔を見せた。
 こんな時に思い掛けなく土門に会えたことは、なんとなくありがたい気がして、豹一はすすめられるままに、四五杯続けざまに飲んだ。
「御見事、御見事! それでいくらか血色が良うなりましたわい」
 土門が言うと、箸を無理矢理にカラーの間から背中へいれて、ぽりぽりかゆいところをかいていた北山が、
「いや、ちっとも良くなってません」恐らくさっきからの議論の仕返えしだろうか、土門に逆らうように言って、
「どうしたんです? 血色がわるいですね」
 豹一ははじめていくらか赧くなって、
「さっき車のなかで吐いたんです」苦笑しながら言った。
「それやいけませんね。酒は毒ですよ。あんた方にはまだ酒を飲むのは早い。よした方がいいですね」北山は日頃に似合わぬしんみりした口調で言った。
 豹一はふっと温いものが胸に落ちる想いで、「はあ」素直にきいていた。
 すると、土門が急に笑い声を立てた。
「北山からかうのはよせよ! 貴様がそんな意見が出来た柄か、あ、は、は、……」
 北山の顔を、こいつめとにらみつけた。北山もちょっとにらみかえしぷっと噴き出しそうになるのをこらえながら、済ましこんでいた。
 豹一ははじめて、北山にからかわれていたことに気がついて、気をわるくした。途端に多鶴子のことがチクリと刺す想いで想い出され、気持が沈んだ。
「おい、しっかりしろ」いきなり土門が肩を敲いた。「しょんぼりする手はさらにないと思うがね。愚僧なんかには、なんでそんなに面白くない顔をするのか、わかり、や、せんね。良い恋人をもちながら、まだ不平があるのかね? おい、こら? いっぺんどやしたろか?」
「恋人なんかありませんよ」
「ぬかしたな。村口多鶴子はどうした? ――そんな顔せんといて頂戴んか。ちゃんと聴込みがあるんでっさかい。惚れてるか、惚れられてるか、そこまでは知らんがね」
「惚れてませんよ」
「じゃ、惚れられてるのか? いよいよ以てけしからん」そう言ったが、すぐ土門は、「あ、なるほどわかった」と、大声を出した。
「痴話喧嘩だね。そうだろう?」
 豹一は黙って体を動かした。
「痴話喧嘩ぐらいでくよくよするなよ。なんだ、あんな女。たかが村口多鶴子じゃないか」土門に言われて、豹一は、
「そうですよ。あんな女!」と、言って、こんにゃくをその気もなく口に入れた。口をもぐもぐ動かせながら浅ましい気持をしょんぼり噛んでいた。
「女優で想い出したがね」と、北山が口をはさんだ。「僕の友人で女優のプロマイドをうつすのを商売にしてる奴がいるんだ。そいつからきいた話だがね。そいつがね、浴衣の宣伝写真をうつすことになったんだ。いや、浴衣とはあんまり冬むきじゃないがね。しかし、まあ季節はずれと言えばね、その浴衣の宣伝写真はなんと五月頃にとるってからね。いや、こんなことはどうでも良いことだ。とにかく、奴さんその五月頃にだね、宣伝用の浴衣をもってなんとかいう女優のところへ行ったんだよ。そして、これを着変えて下さいって浴衣を出すとね、別室で着変えると思いきや、その女優はなんたることにや、奴さんの眼の前でぱっとだね……、とにかくあれだよ、浴衣ってものは素肌の上に着るもんだからね、しかし、まあ、おれなら眼をまわさないがね。奴さんともかくやられたらしい。あ、は、は、……凄い女優もいるもんだね」
「感心したか?」土門が口をはさんだ。
「おらあレヴュー小屋の住人だぜ。貴様はどうなんだ? 感心したろう」
「わてはろくろ首を見てもおどろかん。もっとも、見たこともないがね。――感心するとしたら、こちら様だろう」土門は豹一を指した。
 豹一はからかわれていることに腹を立てる余裕もなかった。北山の話が豹一の心に与えた効果は、そんな余裕があるには、余りにどぎつすぎたのである。
 その夜、豹一は二人に誘われて飛田遊廓で一夜を明かした。
 高等学校時代、赤井や野崎に誘われても頑として応じなかった豹一も、いまは自虐的な気持から、二人のあとに随いて行った。
 女は長崎県松浦郡の五島から来たと、言った。女が親元へ出す手紙の代筆をしてやりながら、いろいろ女の身の上話をきいた。
「こんな生活をどう思う?」
「馴れてますわ」
「はじめはしかし、いやだったろう? 悲しいと思ったろう?」豹一の顔は残酷なほど凄んでいた。
 しかし、結局は金に換算される一種の労働に過ぎないと、女が思い諦めているのを知ると、だしぬけに豹一の心は軽くなった。今まで根強く嫌悪していたものが、ここでは日常茶飯事として、取引されているのだ。
「平気だ! 平気だ!」
 豹一は洗面所の鏡に蒼ざめた顔をうつしながら、声を出して呟いた。
(多鶴子とこの女とどちらがちがうのだ!)
 けれども、さすがに部屋にいて窓の下を走る車のヘッドライトが暗闇の天井を一瞬間明るく染めたのを見ると、夜更のしみじみとした感じも手伝って、遠く多鶴子のことが慟哭の思いで頭にうかんで来た。

      四

 朝、豹一は魂の抜けたような気持であったが、心はようやく一時的に落ち着いていた。夜の色がだんだんに薄紫色に薄らいで行き、やがて東の空が橙色に燃え出すと多鶴子と別々にすごした悩ましい時間ももはやどこかへ消え去ってしまった想いで、じたばたと立ち騒ぐ心も諦めのなかに沈んでしまった。
 しかし、土門や北山と別れて、ラジウム温泉にはいり、広い浴槽のタイルにより掛って、虚ろな気持で体に湯を掛け湯を掛けしていると、ふと多鶴子のさびのある声をもう一度ききたいと思った。
 ラジウム温泉を出ると、公衆電話のなかへ飛び込んだ。五銭白銅を入れて、待っている一瞬、胸さわぎした。多鶴子の電話の声が美しかったことを想い出した。
「通じましたから、お話し下さい」交換手の声に、多鶴子の家の内部が見える思いだった。女中が電話口に出ていた。多鶴子はいるかときくと、
「只今、お留守でございますが……」それでは、やはり昨夜から帰っていなかったのかと、改めて淋しい気持になり、
「あ、そうですか。失礼しました」と、切ろうとすると、女中は豹一の声だと察したらしく、
「あんた、毛利さん? なぜ昨夜お帰りにならなかった? 先生と御一緒じゃなかったの? ――そう? あんたいまどこ? 早く帰って来て下さいな。私ひとりなのよ、淋しいわ」
 帰るもんかと、豹一は電話を切った。しかし、帝塚山へ帰らないとすれば、もう豹一の帰るところは、谷町九丁目の家よりほかになかった。
 新聞社をやめて、おまけに多鶴子の家で「食客」同様の生活をしていた以上、心にかかりながら、やはり母親に会わす顔がないままにずるずると遠のいて半月も経っていたのである。
 いまさら帰れないと、豹一は背中を焼かれる思いだったが、しかし、もはやそこよりほかに帰って行くところがないというより、なんの前ぶれもなしに突然のように姿を消してしまった自分を、身を切られる想いで心配しているだろう母親のやつれた顔を想えば、足は自然谷町の方へ向いた。
 さすがにいつもの出入口からようはいらず、「野瀬商会」と暖簾の出ている方からまるで質札を売りに来た男のような態度で、こっそりはいった。
 店の間には誰もいなかった。
 かつて時々店番をさせられ、質札を売りに来た客の応待をしていた小さなテーブルによりかかって、暫く躊躇っていたが、やがて、「御用の方はこのベルを押すこと」と無愛想な文句で貼紙されているベルを押した。
「へい――」
 長くひっぱるような声がきこえて、おいでやすと、やがて母親が出て来た。客に見せる愛想笑いを顔に釘づけながら出て来たのだが、豹一の顔を見た途端、その笑がすっと崩れたが、すぐ、こんどはこぼれるばかりの嬉しい表情が泛びあがって来て、唇がわなわなとふるえ、眼に涙が来た。そして、きんきんした顔で、
「ああ、びっくりした。お前やったんか。どないしてたんや。阿呆やな。こんなところからはいって来る人があるかいな。さあ、あっちからはいらんかいな」叱りつけるように言った。
「ここからでも良えやろ」豹一はぼそんと打《ぶ》っ切ら棒に言った。
 それで、母子の挨拶になった。水いらずの気持だった。
「ほんまにどないしてたんや。会社の仕事やったんか。字がなんぼでも書けるんやさかい、手紙ぐらい出さんいう子があるかいな」嬉しさの照れかくしに、そんな風に叱りつけていたが、やがて奥へすっこんで、「豹一が帰って来ましたぜ」安二郎に言っていた。
 安二郎の呶鳴りつけるような声が、咳ばらいと一緒にきこえて来た。豹一はちょっと身がすくんだ。その拍子に多鶴子の顔がだしぬけに頭をかすめた。すると、眼の前が血の色に燃えて、安二郎の前に出た豹一の顔は今日はじめての生気を取り戻していた。呶鳴りつけるなら、勝手に呶鳴りつけろといった顔であった。
 そんな顔色を見なくとも、安二郎はむろん呶鳴りつけたいところであった。しかし、安二郎はじっと我慢した。
 安二郎にとっては、豹一が半月家をあけようと、一月家をあけようと、そんなことはどうでもよかった。ただ、三日前の節季に豹一がいなかったということは、はなはだ残念なことであった。貰うべき下宿代も貰えなかったのだ。それだけが癪だった。だから、顔を見るなり、呶鳴りつけたい気持だったが、しかしさすがに安二郎は慎重だった。下手に呶鳴りつけて、怒らすと再び飛び出してしまうおそれがあると、豹一の気性をのみこんでいたから、お君が嬉し涙をこぼしたほど、口調を柔らげたのである。
「家をあけるのは、そら構へんぜ、しゃけど、きまりだけはきちんとしといてもらおう。節季はもう過ぎてるぜ」それだけを言った。
 頭から呶鳴りつけて来るものと身構えていたから、豹一はすかされた気持だった。
(なるほど、金のことを言いやがったわい)豹一は思わずにやりと微笑した。
 一見はなはだ和かな風景であった。
「利子をつけてお渡しします」
「いつくれるんね?」
「今夜お渡しします」
「そうか? 間違いなや」
 安二郎はちらと上機嫌な表情を見せた。お君が豹一のために食事を出してやっているのを見ても、この際いやな顔はせぬことにした。
 母親の給仕でお茶漬を食べていると、豹一はじーんと気が遠くなるほど
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