だった。藪蛇になるようなことを佐古がするわけもない筈だ。それに、出されてわるい「オリンピア」の名もちゃんと出ているではないか。
しかし、「中央新聞」もまた「オリンピア」の広告を毎週掲載している以上「オリンピア」の悪宣伝をするために、その記事を載せたわけではない。全く正反対だった。
「村口多鶴子を迎えて連日満員の『オリンピア』の前で」東洋新報の某記者が口論の末なぐられたと、ただそれだけの記事で、いわば「オリンピア」の宣伝をしているようなものだったが、多鶴子は自分の名前が出ている以上、昨夜豹一が撲られたことをあわせ考えて、なにかそれに深い意味を見つけざるを得なかった、彼女はもはや「オリンピア」へ行く気がしなかった。ひとつには豹一と一緒に居る時間を割くのがいやだった。
「私お店へ行くのをよすわ」多鶴子は新聞を伏せると、そう言った。
が、その前に豹一は東洋新報をやめる決心をつけていた。そんな記事が出た以上社に迷惑を掛けたことになる。
「僕も社をやめます」豹一は、「やめんでもええぜ」という編輯長の言葉をふときく想いで、しかし強い口調でそう言った。
「そう? じゃ、今日は二人で遊ぼうね」多鶴子が言うと、豹一は、
「…………」赧い顔をした。そんな朝の豹一が多鶴子にはたまらなく可愛いと思ったが、じつは豹一はその「遊ぼうね」という媚を含んだ言葉でやはり辛い嫉妬をそそられていたのだった。
多鶴子が顔を見せないので、佐古は周章てて多鶴子の家へ飛んで来た。多鶴子は豹一と芝居を見に行って居り、留守だった。佐古は役目柄辛抱強く待った。夜おそくやっと帰って来たのを掴えて、佐古は、
「休むなら前もって言うてくれはらんと困りまんな。芝居とちごてあんたの役は代役がききまへんよってな」と、言った。
「あら、すみません」
「そない、あら、すみませんテあっさり言われたら困りまっせ。いったい来てくれはるんでっか、くれはれしまへんのか、どっちだんねん?」
「すみませんが、やめさせていただきます」
「えっ?」佐古は「げっ」と聴えるような声を出した。
「私、これでも随分辛抱したもんですわ。最初の一晩でじつはやめさせていただきたかったんです」それは約束がちがうという佐古の顔へ、多鶴子はにやりと微笑を投げかけて、「……いいえ、最初の二晩で、……」と、言った。
佐古ははっとした。多鶴子は続けて、
「あの晩あんなことがございましたし、……私よっぽどあれきりお店へ出るのよそうと思ったんですけど……」
佐古の顔をまじろぎもせずに見つめながら、待合へ連れ込まれようとした晩のことを徐々に持ち出した。佐古は引き下らざるを得なかった。玄関まで見送って、
「夜分冷えますのに、御足労でした」多鶴子はそう言葉を残して、すっとなかへ消えてしまった。
佐古は莫迦にされたような気持でぷりぷりした。多鶴子があんなに周章てて奥へはいったのは、誰かが待っているためだろうと思うと、一層腹が立った。佐古の想像通りだった。豹一が待っていたのである。
佐古を追っぱらったあとの応接間へ多鶴子が再びはいって来ると、いままで佐古が腰かけていた椅子に豹一がいて、多鶴子が食い残したチョコレートをむしゃむしゃ食べていた。
わるいところを見つけられたと、豹一は真赧になってしまったが、多鶴子は、
「まあ!」子供の盗み食いを見つけた母親のような顔になった。たとえ、その時豹一が子供のように見えなくとも、そしてまた、どんな見つけられてわるいようなことをしていたとしても、この時の豹一なら多鶴子の気に入った筈だ。佐古のいやな顔を見たあとだったからである。「さあ、いやな奴を追っぱらった。もう二人きりね」
多鶴子は豹一の傍にぴったり体をつけて坐りながら言った。昨夜から妙にそわそわと落ち着かなかった母親も、多鶴子に無理に説き伏せられて、温泉へ行ってしまった。残るのは女中だけだった。
豹一と多鶴子の仲が心配していた通りになったとはっきりわかると、ひそかに豹一に恋をしている女中は、すっかりしょげてしまって、溜息ばかしついていた。泪ぐむことさえあった。
多鶴子はさすがにそれを気づくと、豹一にそのことを冗談めかして言った。
「あんた罪な人ね」恋をすると、いくらか下品な調子が出るのだろうか、多鶴子はそんな風に蓮っ葉に言って、豹一の膝をつねるのだった。
「痛ア!」そんな声を出す自分を、豹一はさすがに浅ましいと思い、昨夜来谷町九丁目の家へ帰らずにいることをふっと思い出し、「お帰り、えらい遅かったな。はよ寝エや、炬燵いれたるさかい」といういつもの母親の声が遠くからチクチク胸を刺して来るのだったが、もはや嫉妬のためにますます多鶴子への恋を強められている豹一には、多鶴子の傍をはなれて家へ帰るなど到底出来そうにもなかった。
ふとした拍子に豹一が自嘲的に思い泛べた表現を借りていえば、そんな風に多鶴子の「食客」となって、二週間経った。
恋をしている証拠に、豹一はもはや多鶴子以外になんの興味も感じ得なかった。もともとたいして世上百般のことに興味をもたない彼ではあったが、しかし、少くとも彼の自尊心を刺戟することに対しては情熱的に興味をもっていた。ところが、その自尊心も彼には残り少なかった。そんな風に嫉妬に苦しみながらも多鶴子を愛している以上、自尊心にははじめから兜をぬいでいたのである。
ところが、一方多鶴子の方は、それがはじめての経験ではないという点だけでも、豹一よりいくらか余裕があった。おまけに、彼女は嫉妬する必要もない。従って彼女には豹一のこと以外になお興味をもち得る余裕があった。「人気」がそれだった。
彼女は豹一との恋以外になんら為すところのない生活に漸く焦り出して来た。もし彼女が毎晩「オリンピア」へ出掛けて、くだらぬ男たちに取りまかれていたのなら、豹一と一緒にいることにほっとした救いめいたものを感じ、そうした生活に飽くこともなかったわけだが、ただ豹一とばかしいる生活では、折角の豹一の魅力も薄らいで来るのだった。豹一の魅力をほんとうに味うためには、彼女には、やはり「俗物」とまじわることが必要だった。彼女はもう一度返り咲きすることを想った。むろん、それは彼女の虚栄からばかしではなかった。ひとつには生活の資を得る手段でもあった。
しかし、ともあれ彼女が「人気」への憧れをだんだんに見せるようになったのは、豹一にとっては苦々しいことだった。その持論からいっても苦々しかったが、ひとつはなにか不安気な気持もあったのだ。
じつは、豹一は多鶴子が矢野を愛したということがどうにも我慢がならず、散々努力したあげく、多鶴子の口から、矢野とああいう関係になったのはみな人気をあげるためで、愛したおぼえは少しもないと無理に言わせて、それをまた自分に無理に思いこませて、僅かに慰めていたのである。だから、彼女がふたたび、「人気」への色気を見せたということは、そのためには彼女はなにをしでかすかもわからぬとして漠然とした不安を、豹一の心に強いる結果になったわけである。
そしてこの不安は単なる杞憂では終らなかった。
三
ある日、多鶴子は用事があると称して、ひとりで外出した。
「どんな用事」とは豹一はなぜかきけなかった。
そして、女中と二人で留守番をすることになった。
念入りに化粧して、そわそわと出て行った多鶴子の後姿を見た瞬間から、豹一の心は胸苦しく立ち騒いだ。
散らかした鏡台を跡かたづけしている女中の顔を見ていると、今しがたまでその鏡に映っていた多鶴子の顔の美しさが想い出された。その美しい顔で誰と会うているのかと思うと、彼の眉のまわりににわかにけわしい嫉妬が集って来た。
落日の最後の明りが窓硝子を去った。あたりが薄紫色に沈んでしまうと、多鶴子と離れている時間がひしひしと迫って来て、豹一の心を滅入らせた。
電燈がついた。多鶴子はまだ帰って来なかった。豹一は町へ出掛けることにした。
南海電車で難波まで来た。そこから、心斎橋筋の雑閙のなかを北の方へ歩いて行った。ついぞこれまでなかったことだが、今夜の豹一はすれ違う男たちの顔が眼について仕方がなかった。なんというおびただしい数の男だろう。その男たちのうちには、多鶴子と踊った者もいるに違いない。また、多鶴子の映画を見てひそかに不逞な想像をしていた者もいるだろう。
(おれは村口多鶴子の恋人だ!)という自負心の満足はしかしちっともなかった。それどころか、いかにもダンスをやりそうな気障な服装の男を見ると、豹一は周章てて首を振った。
戎橋の上で豹一はふと立止った。
対岸のキャバレエ「銀座会館」からジャズバンドの騒音がきこえていた。宗右衛門町の青楼の障子に人影が蠢いていた。よく見ると、芸者が客と踊っているのだった。軽薄な腰の動きが豹一の心をしめつけた。冷たい川風が吹きあげていた。
ふたたび歩き出した途端、傍をすれちがった女のコートを見て、豹一は思わず、あ、寒さを忘れてしまった。多鶴子だった。
そう気づくより前に、多鶴子の傍に並んで歩いている男の顔を、矢野だと、気がついていた。
「…………」呼ぼうと思ったが声が出ず、豹一は唇まで真蒼になった。
駆け寄って、いきなり多鶴子の顔を撲る――と、咄嗟に頭に泛んだが、実行出来ず、やっとの想いで足を引き抜くようにしながら、急いで二人の前へ抜け出ると、素知らぬ顔をつくろってゆっくりと歩き出すのが関の山だった。そんな風な下手な思わせぶりなことしか出来ないのを、さすがに悲しいと思ったが、いったん素知らぬ振りをした以上そうして歩き続けるより仕方なかった。うしろから二人が来ると思えば、背中が焼かれるようだった。
おどろいた多鶴子の顔を想像するという消極的な残酷さを味うのがせめてもだった。
しかし、矢倉寿司の前まで来ると、豹一はもうそんな思わせぶりな態度が続けて居れず、いきなり振り向いた。
多鶴子と矢野は宗右衛門町の角で車を拾って、乗り込もうとしていた。ちらと多鶴子が困惑した表情を見せてこちらを向いた。さすがに豹一の心にはとっくに気がついていたのである。
「あ、待て、乗ったらいかん」
はっきりとそんな風に言ったかどうかは、豹一には記憶がなかった。が、ともかく、矢野のあとから車に乗り込もうとするのを見て、豹一は動物的な叫び声をあげながら、駆け寄った。その時、車は走り出した。多鶴子はじっと前を見たまま、振りむきもしなかった。
豹一はその表情に取りつく島のない気持を強いられ、なにかいまわしい想像が生々しく頭に閃いた。
「女心はわからぬものだ」月並な表現だと思う余裕もなく、豹一は思わず呟いた。
家を出るとき、妙にそわついていた多鶴子のありさまにふと不安を感じたのは、やはり虫の知らせだったかと、豹一はわれにもあらず迷信じみた考えを抱いた。
(矢野と打ち合せしてあったにちがいない)その通りだった。
多鶴子は偶然矢野に会うたわけではなかった。話があるから会いたいと、矢野から場所と時間を指定した手紙が来たのだった。手紙を見た途端に、多鶴子は出掛ける心が決った。豹一に済まない気がしたかどうかは、ここで述べる筋合のものでもあるまい。矢野はやはり自分から逃げていたわけでもなかったと、ともかく多鶴子は頬を燃やしたのだ。いそいそと出掛ける気になりながら豹一に済まないもないものである。因みにいえばたいていの職業をもつ女はそんなに嫌いな男でない限り、話があるといわれれば、出掛けるものである。善良な女ほどそうだ。
話というのは、多鶴子が思った通り仕事のことであった。
「どうだね。君ひとつレコード歌手にならんかね」会うなり、矢野は事務的な口調で切り出した。
映画界へ復帰するのは当分困難だし、といって今更もう一度キャバレエ勤めでもあるまい。
「君の声なら案外ブルース物で売り出せると思うのだが……」
「しかし……」全く経験がないから……と、多鶴子がいい出すのを、
「いや、大丈夫だよ」と矢野は押えて、「君さえその気があるなら……」
「レコード会社で使って下さるの?」
「うん。大体あらかじ
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