手にとると、器用な手つきでそれをむきだしたのである。むろん豹一のためにだった。不器用な豹一は林檎ひとつようむかず、そんな多鶴子を見て、ふと心が温った。瞬間義務のことは忘れ、繊細な多鶴子の指の美しさにうっとりとした。
そんな夜が四五日続いた。その三日間なにひとつ「義務」に気に入るような行動は出さなかったために、豹一は些かうんざりしていたが、あるいはそれがかえって良かったのかも知れぬ。「義務」の命ずるままに乱暴に手を握ったりすればお互い不愉快なことこの上ない。全くのところ、豹一はいっぺんに愛相をつかされたところだったかも知れない。しかし、そんなことはなかったから、多鶴子は彼女自身の表現を借りていえば、豹一と「遊ぶことに小川の清流のような気持」を味わっていた。つまり、矢野の男くささを忘れるためには、豹一のような内気な少年と接触しているのが最も良い方法だったのである。
もし豹一の変挺な「義務」というものを抜きにして考えるならば、二人の仲は全くままごとじみていたわけである。誰の眼もそれを怪しむものはない筈だった。しかし、美貌の点に於いてはひけをとらぬこの二人の組み合せは、さすがにひとびとの眼を瞠らしめるに足るものがあった。就中、佐古の眼に余った。
佐古は豹一と多鶴子の「特別の関係」に就いては、この間の晩身を以て知っていただけに、やきの廻ることおびただしかった。豹一に弱点を掴まれているという痛さのために、一層癪に障った。ことに腹が立ってならないのは、毎晩豹一が閉店《カンバン》になるまで粘って、多鶴子と同じ車で帰って行くということだった。そのため、彼の図々しい計画もさすがに手も足も出なかったのだ。
(おれの計画の邪魔をしやがる。生意気な若造や!)
しかし、そのことは豹一の意志から出たのではなく、じつは多鶴子から同じ車で途中まで送ってくれと、頼まれたことをやっていたまでであった。しかし、それならそれで佐古は一層腹を立てたところだったかも知れない。
(あいつは惚れられとる。生意気な奴)……には変りなかった。
(二度と再び『オリンピア』へ来られんように、がーんとひとつ行ったらんといかん!)そう思ったが、しかし、さすがに大人気ないと躊躇した。が、ふと、(あいつはうちの商売の邪魔や!)
そう思いつくと、やっと口実がついた。これならば、ひとにきかれたとしても、恥しくないわけだ。少くとも、佐古は焼餅をやいて若い男を撲ったと思われなくて済む。
かつての電機工らしく、佐古は他人を撲る快感を想って、ぞくぞくした。が、ふと思えば、佐古は豹一に弱点を握られているわけだった。
(おれが出たら拙い。あとで新聞に書かれたらわやくちゃになる)そこで、佐古はかねがね「オリンピア」と縁のある道頓堀の勝に依頼することにした。
道頓堀の勝は頼まれたことを、簡単にやってのけた。わざわざ喧嘩を売るきっかけを求める必要もなかったのである。道頓堀の勝は「オリンピア」が閉店になって、豹一が多鶴子より一足先に出て来るところを待ちうけていたのだが、おいと声を掛けて寄って行ったかと思うと、もう豹一の方から突っ掛って来た。弥生座の裏路次で撲り倒された相手を豹一が忘れているわけもなかったのである。豹一は前後の見境もなく、突っ掛って行ったが、
「二度と再びこの店へ来やがると、承知せえへんぞ!」
という道頓堀の勝の鼻声をきいた途端に、意識を失った。
はっと気がつくと、車に乗っていた。傍に多鶴子がいた。いつも豹一が降りることにしていた日本橋筋一丁目はとっくに過ぎていた。
簡単に撲り倒された醜態を見られたかと思うと、豹一はあのまま死んでしまった方が良いと思うぐらいだった。そして誰にも知られていないが、この前にも一度こんなことがあったと思えば、一層身が縮まり、もう多鶴子にも愛想をつかされたと、しょんぼり気が滅入ったが、車が帝塚山へつくと、多鶴子は泊って行けと意外なことを言った。
「でも……」と、さすがに渋ると、多鶴子は、
「そんな体ではひとりで帰れないわ」
まるで豹一の体をかかえんばかりにして、車から降ろした。豹一はもう断る口も利けなかった。じかに触れて来る多鶴子の手や肩や胸のかすかな感触のせいばかりではない。そんな風に病人扱いにされることが、消え入りたいほど恥しかったからである。
倒れるときちょっと頭をうったのは、それに興奮していたせいもあって脆くも意識を失ったのだが、かすり傷ひとつなかったのである。大袈裟に倒れたわりにかすり傷ひとつなかったという点で、豹一はますますしょげて、情けない状態になっているのを、多鶴子はかつ安心し、かつおかしいと思った。
多鶴子は殆んど夜通し豹一を「看病」した。じつは円タクの運転手からことのいきさつをきいていた。運転手のいうところによれば、撲った男は豹一に、「二度と再び『オリンピア』……」云々といったそうである。だから、運転手の想像によると、撲った男はいろおんなを豹一にとられたのか、それとも「オリンピア」に頼まれてやったのかどちらかだというのであった。それをきいて多鶴子はなにか自分の責任を感じた。だから、「看病」の義務はあると思った。ひとつには、女中が豹一を看病することに異常な情熱を見せたので、多鶴子はなにか気色を損じ、女中に任せきりで置くというわけにいかなかったのである。
可哀相に豹一は氷枕をあてがわれた。飛びあがるほど冷たかったのと、そんな風に病人扱いにされる恥しさのため、豹一は到頭熱を出してしまった。多鶴子は看病の仕甲斐があったわけである。彼女はすっかり疲労してしまった。
女中は自分が看病出来ぬので、すっかり多鶴子に嫉妬を感じた。女中は漠然とした不安を抱きながら、眠った。
この不安は適中した。恥しさのため腹を立てんばかりに逆上してしまった豹一と、疲労のために日頃の半分も理性が働かなかった多鶴子は、ありきたりの関係に陥った。
戸外は小雪だった。
二
昔なら、たとえば平安時代なら、美貌の男女の関係を述べるのに、一頁も要しなかったところだろうが、現代の、しかも頗る自負心の強いこの二人には右のような数々の偶然が必要であった。
女中が想像するぐらいだから、極めてありふれたことにはちがいないというものの、そうした偶然がなければ、かりにお互いにどれだけ好き合っているにしても、めったにそういう関係に陥らなかったであろう。
もはやなにひとつ拒むものがなくなってからも、多鶴子は思い出したように、豹一を突き飛さんばかりにした。が、突き飛したといえば、豹一の方も同様であった。
彼の精神状態はいかに逆上しているときでも、全部は朦朧としてしまわないという点で、特異性があった。頑固な牧師のようにひそかに抱いているある種の嫌悪は、その時も敏感な蛇のように鎌首を擡げていた。母親の顔、東銀子の薄い胸細い足、それらが泛んでは消え、消えては泛んだ。そのため、豹一はもっとも楽しかるべきときでさえ、残酷な犯罪を犯したあとのようなけわしい表情になっていた。嫌悪しているものに逆に惹きつけられるという、捨鉢な好奇心は彼に慟哭の想いをさせてしまったのである。
義務を果したという、自尊心の満足もこの時はてんで役に立たなかった。なぜなら、彼の自尊心は矢野の顔を想い出すことによって、勝利感どころか、全く粉微塵になってしまったのだ。
(あいつはこの女を自由にしていたのだ!)自分を情けない状態に置くためには、そのことを思うだけで充分だった。(この女もあいつの自由になることを喜んでいたのだ! 丁度こんな風に……)それを感覚的に想像するに及んで、彼の苦悩は極まった。
自尊心を問題外に考えても、感覚的な嫉妬とともに始った最初の恋ほど苦しいものはまたとあるまい。女の魅力が増せば増すほど、嫉妬の苦しみは大きいのだ。
可哀相に豹一は夜通し悩み続けた。ことにやりきれなかったのは、彼がいままで嫌悪していたことは、女の意志に反して行われるものと思っていたのに、意外にもそれは思いちがいだったということだった。
彼は女の生理の脆さに絶望してしまった。彼がいきなり多鶴子を突き飛ばしたのも無理はなかった。
(女って駄目だ!)なぐりつけたいような気になった。
「矢野とはなんにもなかったと、誓ってくれ!」半泣きの声を出して、そんな無理なことを言ったかと思うと、
「いまでも矢野が好きなんだろう?」噛みつくように言って、ピシャリと多鶴子の頬をなぐった。
いかにも内気らしくおどおどしたり、つんと済ましこんでいたり、随分ぎこちない豹一ばかり見て来た多鶴子は、そんな情熱的な豹一を見ると、思わず唇の端に微笑を泛べた。そして、恐らくは無意識だったろうが、もっと彼を苛めるようなことを、ふといってしまった。
「ダンサーをしていた時、いろんな人に口説かれて困ったわ、伊太利人もあったわ」
ちょっとした昔話と、きき流せることも出来る言い方だったが、豹一の顔は途端に曇った。
「好きになったんだろう? 誰か……」
「そりゃ、少しは……。しかし、たいしたことはなかったわ」
「どんな人?」
「やっぱり踊りの上手な人ね。リードのうまい人だったら、踊ってる間だけ、ちょっと迷わされるわ」
豹一の顔はにわかに歪んだ。数えきれぬほど沢山な男に抱かれて踊っていたのだと思うだけでもやりきれなかったのに、踊ることによって自他ともにひそかに愉む気があったのかと思えば、もう豹一の嫉妬は果てしがなかった。
そんな豹一を見て、多鶴子はもう自分の年齢を気にしなくとも良いと思った。じつは多鶴子は、隠してはいたが、豹一よりも六つも年上であることに女らしい負目を感じていたのであった。なお彼女は、豹一の狂暴的な嫉妬に心を打たれてしまった。矢野は嫉妬の素振りも見せぬほど円熟していた。ときには憎いと思われるぐらい紳士であった。それに比べると、豹一の表情のひとつひとつはそのまま恋する男のそれであった。
(こんな情熱的な人を見たことがない)多鶴子はそう思った。
豹一がもし四十男であったなら、彼の嫉妬ぶりにはさすがの多鶴子もうんざりしたところであろうが、その点彼の若さがそれを救っていた。
(初心なんだわ)感激した彼女は豹一に、
「これまであんたほど好きになった人はないわ」と、言った。
自尊心の強い彼女としては、よくよくの言葉だった。他の男、たとえば矢野には言えなかった言葉だった。相手が豹一だから言えたのである。だから、豹一は喜んでもよかったのだ。ところが、豹一は「これまで……」といういい方が気にくわなかった。
(これまで[#「これまで」に傍点]何人の男に惚れたんだろう?)
ほんの言葉の端にも、(嫉妬)がひっ掛かって行くのだった。なお、そんな風に「好きになった」とはっきり言われるのも辛かった。いっそ嫌いだと言われた方がサバサバするのだった。愛されていると思うと、一層嫉妬の苦しみが増すばかりだった。
豹一は朝までけわしい表情を続けていた。そして、朝になると、その表情は一層はげしくなった。
朝刊に昨夜「オリンピア」の表で暴行事件があったと、出ていたのである。
[#ここから3字下げ]
東洋新報記者撲らる
原因は女出入か?
[#ここで字下げ終わり]
そんな風な見出しであった。どの新聞にも出ているというわけではなく、載せているのは「中央新聞」だけだったが、「中央新聞」は「東洋新報」と色彩を同じくし、いわば文字通りの商売敵だった。従って皮肉な調子が記事にあらわれていた。朝の珈琲を応接間の長椅子に腰かけて飲みながら、新聞を読むという余り柄にもないことをやったばっかしに、そんな記事を読まされてしまったのである。豹一は黙ってそれを多鶴子に渡した。
多鶴子は記事のなかから、自分の名前を見つけてしまうと、いきなり、(あ、佐古が書かしたんだわ)と思った。
豹一とそのような関係になった以上、佐古の嫉妬の仕業だと思うのは一応当然ではあったが、じつはその記事は撲った道頓堀の勝の友人の記者が書いたのだった。佐古のためにここで弁解して置くが、佐古の与り知らぬこと
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