(おれは人気女優と肩を並べて歩いているのだ!)
悪い気はしなかった。が、かねがね豹一は「人気」などというものは軽蔑していた筈ではないか、それを、こんな風に喜んでいるのは、矛盾といってよいのか、あるいは彼の若さといってよいのか、――ともあれ他人がこんな考えを抱いているのを見ると、豹一はむかむかと軽蔑心が湧いて来るところだった。しかし、さすがに豹一は、そういう矛盾に気づいたのか、それとも照れていたのか、すっかり悦に入ってしまっているわけではなかった。
だから、そんな風に質問されて、「いや、光栄のいたりです」などと、たとえ笑いながらにしても、言うような莫迦げたことはしなかった。といって、咄嗟に良い返答も泛ばなかった。
「まあ、しかし……」結局、そんな風に口のなかで呟いた。
多鶴子は気色を損じてしまった。豹一は多鶴子の心の動きに敏感になっていたから、すぐ、(拙いことを言ったもんだ)と、気がついて、
「僕いま勤務時間中をサボってることになるんです。たまにサボるのも良いですね」苦しい弁解だった。
が、この言葉は釈りようによっては「私と歩くのはお嫌い?」という多鶴子の問に答えていることになった。少くとも多鶴子は、豹一が自分と一緒に歩くことを喜んでいるものと釈りたかった。釈った。
つまり、その苦しい弁解はいくらか成功だった。多鶴子も満足したし、また豹一も満足出来た。誰にきかれても恥しくない言葉だったからである。
この豹一の慎重さは、なお見るべき効果を収めた。彼は厚面しい男や、抒情的な恋人のよく使う、
「こうして歩いているところを見たら、ひとはどう思うでしょうかね?」
というような、思わせ振りな言葉はあくまで警戒していた。つまり、教養ある女をいっぺんにうんざりさせてしまうような言葉を、調子に乗ってうかうかと口にするようなことはしなかったのである。そのため、多鶴子は若い新聞記者と肩を並べて御堂筋の舗道をわざわざ往復しているということを、必要以上に意識せずに済んだ。自然豹一の心を惹きつけるための無意識な媚はすらすらと発露された。豹一は自惚れても良かったのである。ところが、意外な出来ごとのために、豹一は全然正反対の気持になってしまった。
大丸の前まで来た時だった。
「毛利さんに妹さんがあったら、きっと綺麗な人だと思うわ」
と、相手の嬉しがるような言葉を口に出しかけた多鶴子が、不意に顔色を変えて言葉をのみこんだ。真蒼な痙攣が多鶴子の横顔に来た。おやっと思った豹一の眼に、大丸の扉を押して出て来た男の姿が、なぜか止った。
バンドのついた皮の外套を短く着て、ゴルフ用のズボンを覗かせていた。縁なしの眼鏡の奥から、豹一をじろりとにらんだ。が、その前にその男は多鶴子の顔を見ていた。そして、あっという顔付きで立ちすくんでいたが、やがて固い歩き方で寄って来ると、
「暫く……。どうしてるの」と、多鶴子に言葉を掛けた。
「…………」多鶴子はハンドバッグの金具をパチンとしめなおした。かすかに手がふるえていた。
「新聞で見たよ、『オリンピア』に出ているんだってね? ――まあ、元気でやりなさい」豹一の方をじろりと見てから、もう一度多鶴子の顔を見た。多鶴子は、
「ありがとう」と、小さく言った。男は手をあげて、
「じゃ」行ってしまった。
「あ」多鶴子は靴の踵をちょっと動かしたが、あとを追うのを思い止った。そして、暫く立ちすくんでいたが、やがて物も言わずに歩き出した。
「誰ですか?」豹一はやっと訊いた。
「矢野さん」それっきり多鶴子は口を利かなかったから、豹一はいや応なしに、「私は矢野さんが好きでした」とさっき不二屋できいた多鶴子の言葉を取りつく島のない気持で想い出さされてしまった。なお、今しがた矢野さんが残して行った見下すような(――と豹一は思った――)一瞥を想い出した。
豹一は自分の表情をもて余した。多鶴子の足が急に早くなったので、瞬間少しは歪んだにちがいない表情をそれと気づかれるおそれがなくて、もっけの倖いだと思ったものの、多鶴子の足が早くなったのは、それだけ心が動揺している証拠だと、豹一にもその動揺がそのまま乗り移って来た。所詮心の平かな筈はなかった。
いくらか自惚れかけているところだけに、多鶴子の動揺は一層辛かった。それに情けないことには、豹一の眼から見て、矢野は想像以上に立派に見えた。寒い風も当らぬような顔で立去って行ったのではないか。豹一は自分が矢野の前で頗る影が薄かったと、思った。
多鶴子は黙々としていたので、豹一はそんな風に孤独な考えに耽った。
(矢野はおれがこの女の傍にいるのを見て、ちゃんちゃらおかしいと思っただろう)
嫉妬の気持はこうして、徐々に豹一の心にしのび込んで来た。豹一の心を惹きつけようという多鶴子のさっきからの無意識な努力は、かえって黙っていることによってはじめて実を結んだ。
だが、さすがに豹一は余り黙っているので、いつまでもついて歩いているのは浅ましいことだと、思った。豹一は多鶴子の顔を非常に美しいと、意識しながら、
「僕ここらで失礼します」と、言った。そして、だしぬけに傍を離れてしまった。
そんな風にいきなり立ち去ろうとした豹一を見て、多鶴子ははじめてわれにかえった。
「あ、毛利さん」呼び止めて、「今夜『オリンピア』へ来て下さらない?」と、言った。
そして、豹一の方へ二、三歩駆寄った。
寒い風が日のかげった舗道に吹いた。
豹一は、
「ええ」と、声をあげた。そして別れた。
第三章
一
佐古の顔を見なければならぬかと思うと、多鶴子はもう「オリンピア」へ行く気がしなかった。しかしはっきりとそう言う名はついていないが、前借乃至契約金に似た金を貰っている以上、いきなり廃めてしまうわけにはいかなかった。人気稼業をしていただけに、契約の重んずべきことは判りすぎるほど知っていた。どうしようかと、多鶴子は朝から思案していたのである。
ところが、豹一に「今夜『オリンピア』へ来て下さらない?」と言った瞬間に彼女の心は決ってしまった。
いきなり廃めてしまっては角が立つ。佐古には昨夜のことは知らぬ顔を見せて置けば良いのだと、多鶴子はいつもの時間に「オリンピア」へ出掛けた。
しかし、なぜ豹一に「オリンピア」へ来てくれと言ったのであろうか。
一人でも多く客を勧誘するための商売気からだときいても、相手が豹一とあれば、いくら宣伝係とはいえ、佐古も喜ぶまい。むろん、そんな気持からではなかった。いうならば、多鶴子自身それをはっきり意識しなかったことだが、やはりその夜もう一度豹一と会わずにはいられなかったのである。と、いって浮わついた気持でもなかった。少年のような豹一を相手に恋人なんぞ考えてみてもおかしい、つまりその日思い掛けなく矢野に会うたという心の動揺が、豹一というあまり男臭くない杖を必要としたのだった。
矢野と会うのは五ヵ月振りだった。事件が起って以来である。会いたくても会えなかった。世間が会わさないのだと、多鶴子は思っていた。そう思いたかった。事件を良い機会に矢野の方から逃げ出したとは、思いたくなかった。向うも会いたいと思っているのだろうと、信じていた。が、矢野の顔を見た途端、その気持が裏切られてしまったのだ。五月振りに、しかもああした事件があった後の出会いならば、もっと切ない気持がお互いに湧いた筈である。少くも、多鶴子は口も利けないほど切なかった。ところが、矢野はいけ洒蛙々々とした態度を見せた。多鶴子にはそう見えた。途端に、自分から逃げ出したかったのだと、多鶴子は思った。立話さえ憚からねばならぬ気持はわかる。しかし、それにしても、もう少し愛情の籠った態度を見せてくれてもよかりそうなものだと、後追い掛けた咄嗟の恨みだった。結局はじめからてんで愛情がなかったのだと、もうあとを追う気はしなかった。矢野に愛情がなかったと、思うと、多鶴子ははじめて自分が矢野を愛していたのだと、はっきりわかるような気がした。人気のためではない好いているからだった、――と、豹一に言った言葉もこの時の多鶴子の気持から押せば、満更弁解でもなかったわけだ。その証拠に、多鶴子はもう矢野のことを思い切らねばならぬと、思ったではないか。その瞬間の豹一は、どう見ても矢野よりも影が薄かった筈だ。と、同時にどんな醜男であるとしても、いくらかましに見えた筈だ。今夜「オリンピア」へ来てくれと、多鶴子がいったのも無理からぬことだった。
なお、序でにいうならば、多鶴子に「オリンピア」へ行く決心をさせたのも矢野の後姿だった。女は失恋したときは、けっしてひとりきりにならないものだ。たとえ、心の苦しみを忘れるために旅行するにしても、誰かにその旨言ってからするのが普通である。
ともかく、多鶴子は「オリンピア」へいつもの時間に現れた。佐古は多鶴子の顔を見ても、昨夜のことは全然知らぬ顔をするつもりだったが、多鶴子が現れると、
「おや、いらっしゃい」と、思わず言ってしまった。まるで、意外な人を迎えるような言葉だった。つまり、ひょっとしたら多鶴子は来ないのではなかろうかと心配していた気持を、うかつに見せたわけだった。
十時頃、豹一はやって来た。多鶴子は当然来るものを待っていたという顔で出迎えたが、そんな風に思われたと知れば、豹一としてははなはだ面白からぬところだった。いそいそと出掛けて来たわけではなかったのである。
まことに厄介な話だが、豹一は多鶴子のいいなり次第にのこのこやって来るということに、例によってひどくこだわっていた。行かねばならぬという理由がちっとも見つからぬのである。これには豹一は困った。ひそかに多鶴子に心を寄せているなどとは、ひとは知らず、この自尊心の強い男には、許しがたいことだった。理由が見つからねば、行くことを思い止った方が良いと、豹一は自分に命じたが、これははなはだ無気力な命令だった。その証拠に彼はそう命令してからでも、然るべき理由の発見に頭を悩ました。ふと、彼は矢野の顔を想い出した。縁なし眼鏡の奥からじろりと見たさげすむような眼。眼から眉へかけての濡れたようななまなましい逞しさ。
豹一はやっと理由を発見した(そうだ。あんな男に負けてなるものか。おれはあの女をものにしてみせるぞ!)
豹一の考え方はいつもこれだった。が、この時の考え方にはいくぶん嫉妬の気持もまじっていた。それだけに強かった。豹一はだしぬけに頭に泛んで来たこの考え方に従うことにした。これが、「オリンピア」へ行く口実になった。
そんな豹一の考えを知ったら、多鶴子はぞっとしたであろう。それとも、おかしいと思ったであろうか。しかし、豹一はそんな変な考えを鼻の先にぶらさげて多鶴子の前に現れたわけではなかった。
やっと口実が見つかってほっとしたというものの、しかし、多鶴子をものにせよと自分に課した義務というものは、二十歳の豹一にとっては随分重荷だった。彼はぶるぶる顫えながら、多鶴子の前に現れたのである。まるで吩咐られた通りにおやつを貰いに来た子供のように、多鶴子には見えた。だから多鶴子は随分好ましいと思い、粗末には扱わなかった。
役目柄、多鶴子はあちこちのテーブルへ挨拶に出むかなければならなかったが、その都度豹一に、
「ちょっと待っててね」と、言った。そして直ぐ戻って来て豹一の傍に坐るのだった。
そんな風にされるのは客のなかで豹一ひとりだったから、彼は随分よろこんで良いわけだった。ところが、彼はちっとも嬉しくなかった。例の義務を想い出していたからである。
(なにかしなければならない!)そう思うのだが、しかし、なにをすれば良いのか見当がつかなかった。口説くというような考えは、頭をかすめもしなかった。いろいろ考えたあげく、いつか喫茶店でやったように、手を握るということを思いつくのが関の山だった。結局それを決行しようとだしぬけに、決心した。豹一はそわそわしだした。
が、丁度良い工合にその時多鶴子の手は空いていなかった。多鶴子はボーイがわざとむかずに持って来た林檎を
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