なかった。なぜなら、赤井や野崎のそんな気障っぽさはまるで腹の中ではしゃぎまわっているような、気障っぽさであったから……いうならば、多鶴子のそれのようにつんと乙にすまし込んだ気障っぽさではなかったからである。
そんな風にけちをつけたがるところ、つまり豹一は量見がせまいというのではなかろうか。たぶん、それに違いはあるまい。もともとの性質がそうなのだから致方のないところだが、ひとつには、彼には物ごとに対するはっきりした意見、つまり人生観だとか思想だとかいうようなものが欠けていたせいでもある。だから、このようにこせこせした意見だけを小出ししているわけだった。衝動的にしか物ごとが考えられず、従って行動出来ず、自尊心の振幅が彼を動かしていたわけであった。
多鶴子はそんな豹一の表情を見ると、いきなり昨夜の彼の無礼を想い出した。そして、わざわざ彼を電話で呼び出す気になったわけがはっきりとして来た。
全く、彼女はなんのために再び豹一に会う気になったのか、はっきりわからなかったのである。むろん、昨夜あんな風にされたままでは済まぬという気持はひそかにあった。が、それだけの理由で、彼に会うとは、余りにはしたないことではなかろうか。たかが相手はとるに足らぬ駈出し記者ではないか。そう思うと、電話を掛けたことを軽はずみだと後悔する気持が強かった。ぽっと顔を赧らめてはいって来た豹一を見ると、ますます気持が強くなった。つまり、豹一に対してなんらかの意味で惹きつけられて了うのが許しがたいほど恥しく思えたのである。
だから、いま豹一がそんな可愛げのない表情を見せてくれることは、彼女にとっては、むしろサバサバするようなものであった。
(そうだ! 私は昨夜のこの男の無礼に黙っておれず、わざわざ会うことにしたのだ!)そう意味がつくと、はしたないとか、軽はずみという後悔がなくなった。彼女は睫毛の長い眼をじっと豹一に注いだ。そして、どんな文句を浴びせ掛けてやろうかと、思案した。
ふと彼女は、女らしい敏感さで、豹一のオーバーの疲れに眼がついた。まるで可哀相なほど皺がよっている。おまけに、既製品だと見えて、身に合わずぶくぶくなのだ。なお、仔細に見れば、洋服は冬物ではないらしい。ネクタイだって、みじめなものだった。昨夜と同じ柄だが昨夜より皺が多い。
「そのオーバーどなたのお見立て……?」いきなりそう訊いてやろうか、と多鶴子は思った。が、瞬間、豹一の痩せた頬が、眼を痛く突いて来た。
すると、もう彼女はそれが口に出せなかった。そんな言葉を想いついただけでも、なんだか気の毒になって来た。(おや、いけない!)多鶴子は思わず心の中で叫んだ。(私はこの人に同情している)
つまり、それでは、やはり豹一に心を惹かれてわざわざ会う気になったということになるのだ。
彼女は周章てて豹一から眼を離した。その拍子に、(あッ、そうだ!)と、微笑した。
(大変なことを忘れていた。この人に頼むことがあったのだわ)
尾行記のことで頼むために、わざわざ会うているのではなかったかと、彼女はまわりくどい径路を通ったあげく、やっとその結論に到達した。多鶴子はほっとして口をひらいた。
「あのう、じつはお願いがあるんですけれど……。きいていただけます? ……昨夜おっしゃってました尾行記のことですけど……」
豹一はぎくりとした。
「……無理なお願いなんですけど、書かずに置いて下さいません?」ほかに弄すべき策も見当らなかったので、多鶴子はそのように真正面から頼んでみた。
豹一は返事の仕様がなかった。いまそれを書いて来たばかしではないか。活字に組まれて、いま頃は輪転機に載せられた時分だろうと思うと、豹一は、
「ど、どうしてですか?」と、なにか胸のあたりが重いような声を出した。が、次の瞬間にはもう豹一は充分意地わるい口調になって、
「書かれちゃ困るんですか?」土門の話を想い出していた。
(書かれると人気に障わると、いうんだろう。この女はなによりも人気が大切なんだ。監督との問題でも、人気を出すための打算なんだ)
その女のことを散々悪く書いてしまったあとでも、なおこんな風に頭のなかで鞭をふるっていたのは、ひとつには豹一は多鶴子に対して済まぬと思う自分の気弱さを、振い立たせるためでもあったろうが、じつは、丁度そこへアイスクリームが運ばれて来たからであった。
「困るっていうわけでも……」ありませんと、多鶴子がいい掛けるのを、豹一は畳み掛けて行って、
「人気にかかわるっておっしゃるんでしょう!」
多鶴子はふと眼を落した。
「人気ですって……?」語尾が落ちた。
「違いますか?」
「違います!」いきなり、多鶴子の眼の輝きが睫毛を押しあげた。「人気、人気って皆様がおっしゃいますが、……」多鶴子の声は朗読口調になった。
「……私そんなに自分の人気のことばかし考えているのでしょうか。……たとえば、矢野さんのことにしろ、皆様は、村口は良い役をつけてもらいたさに、矢野に貞操を与えたなんて、ひどいことをおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか。人気のために、自分の人気のために、自分を殺したのでしょうか? ……違いますわ。なるほど、矢野さんは私の恩人です。しかし恋愛とそれとは違います。いくら恩人だからって、矢野さんが好きでなければ、私あんな風なお交際はしませんわ。私、ただ、矢野さんが好きだっただけです。それだけです。だからこそ、あのこと[#「あのこと」に傍点]にしろ、矢野さんがそうしろとおっしゃったときその通りにしたのです。好きな人の言うことだから、そうしたのです。それを皆様は、なにもかも人気のためだと、お片づけになるのですわ。色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」
そう言って、彼女はふっと「寂しい微笑」を泛べた。途端に、彼女はその微笑が意識的なものであると気づいて、いやになった。習慣というものは怖しいものだと、思った。彼女は無意識にクローズ・アップの表情をとっていたのである。
(しかし、私の言ってることは嘘じゃない)彼女はそう思った。(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
咄嗟にそう信ずることが出来た。永い間、自分に言いきかせて来たから、もはや、それ以外の考え方が出来なかったのだ。いわば、彼女の固着観念になっているのであった。
しかし、この固着観念を人前ではっきり述べるのは、いまがはじめてだった。彼女はこんなところでそれを言いたくないと、思った。「世間の眼」へのはじめての抗議を、こんな喫茶店のなかでしたくなかった。ことに相手は、新聞記者という点を勘定にいれるにしても、ともかく子供すぎるほど若い男なのだ。
しかし、多鶴子は豹一がびっくりした表情で熱心にきいてくれているらしいのを見て、いくらか張りあいがあると思った。たしかに豹一は、多鶴子の言葉に心を惹かれていた。自分の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。(土門なんかの言葉があてになるもんか!)と思った。
多鶴子は人なかだという点を考慮して、声を低めねばならなかった。感情がたかまっているのに、声を低めねばならないということは、自分の悲しさを一層深めていると思い、思わず瞳がうるんでいた。それを見ると、豹一はますます心を動かされた。極端に走りやすい豹一は、いきなり起ち上った。
「そうですか。わかりました。しかし、尾行記は書いてしまったんです。間に合うかどうかわかりませんが、とにかく社へ電話して発表を見合せてもらうことにします」
そう言うと、豹一は、そんなことが許されるかどうかも思ってみずに、急いで電話を借りに行った。
七
編輯長は豹一の原稿の字の下手糞で、乱暴なのに辟易したが、とにかくざっと眼を通してみた。そして、眼を通してみてよかったと、思った。
(読まんと、社会部長《あのおとこ》のところへ廻したりしたら、えらいこっちゃ。社会部長のこっちゃさかい、あとさきも見んとそのまま印刷に廻しよるやろ)
村口多鶴子の悪口を書いているばかりでなく、「オリンピア」の宣伝部長まで醜行をあばかれているのだった。発表すれば、「オリンピア」から抗議は当然来るべき原稿なのだった。それだけに、特種としての値打は充分あるわけだが、それでは営業部の方が困るだろう。編輯部の立場としては、なるべくなら採用したいところだが、しかし、やはり営業部との摩擦は避けたかった。ひとつには、情にもろい編輯長は、村口多鶴子をかばってやりたかった。
編輯長は豹一の原稿を没にした。が、豹一には些か可哀相な気がした。偶然に恵まれたというものの、それだけの材料をスクープするのは、余程活躍したにちがいないのだ。
(やっぱりあいつは見どころがあった。寒いのに夜なかまでよう活躍しよった。没になったと知ったら、悲観しよるやろ)そう思っているところへ、豹一から電話が掛って来た。
「僕、毛利です」
編輯長は相手が誰か咄嗟にわからなかった。若い声だから、たいした人間からではないのだろうと、
「毛利て誰やねん?」
「はあ。あの社会部見習の毛利豹一です」
「なんや、君か? なんぞ用か?」
「はあ、あのう、さっきの原稿もう印刷に廻ってますか?」
「まだやぜ。それがどないしてん?」
「まだですか。そうですか。そんなら、大変勝手ですけど、あれを没にして下さいませんか?」
「なんでや?」
「はあ。あのう、ちょっと事情がありまして……」
「そうか。そんなら、君のいう通りにしとくわ」編輯長は微笑した。「そいで、いまどこにいるねん?」
「はあ。心斎橋の不二屋に……」
「誰といるねん? 恋人《スーチャン》とか?」
編輯長は思いがけぬ豹一の申出でにすっかり気を良くして、そんな冗談をいい、
「それじゃ、くれぐれもお願いいたします」
という豹一の汗のたれるような言葉を耳に残しながら、電話を切った。途端に、編輯長は、
(あいつ村口多鶴子に頼まれよったんやろ。いま会うとるのやろ)
若い部下のはなやかな活動を想像して、全く上機嫌だった。丁度その時土門が前借の印を求めに来たので、盲印を押してやるぐらいだった。
電話を掛け終ると、豹一は多鶴子のところへ戻って来て、記事の発表を見合せることにした旨言った。
「ありがとう。折角お骨折りなすったのに……」
多鶴子はそう言いながら、ふと、(結局この人は昨夜私を救うために、骨を折ってくれたということになるのだわ)と、思った。多鶴子はいきなり起ち上ると、
「ここを出ません?」朗かな声で、一緒に歩きましょうという気持を含めて、言った。
なによりも多鶴子は、豹一が自分の言葉に感動してくれたことが嬉しかった。そして、すぐ希望以上の処置をとってくれた豹一が、多鶴子の持前の虚栄の眼からは、まるで騎士のように見えるのだった。
昨夜彼女の自尊心をかなり傷つけた筈の、豹一の行動も、いまにして思えば、夜更という点にひどくこだわった好ましい内気さから出たものと、考えられるのだった。そして、帰りぎわの風のような素早さは、騎士のように颯爽たるものがあったと、このかつての女優は思った。
心斎橋の雑閙を避けて、御堂筋の並木道を大丸の方へ、肩を並べて歩いて行った。柔い日射しが二人の顔にまともに降り注いだ。寝不足の豹一の眼にはその日射しが眩しかった。彼は眉の附根を寄せていた。多鶴子はライトの強烈な刺戟に馴らされていたから、そんなことはなく、豹一のその表情を見て、眉をひそめていると感違いした。つまり、不機嫌だと思ったのである。
これは彼女の虚栄から言っても、あり得べからざることだった。彼女は豹一の心を惹きつけるべく、本能的に努力した。心斎橋まで来ると、多鶴子は、
「引きかえしましょう」と、言い、なお、「私と歩くのお嫌い?」とまで言う始末だった。
誰が考えても、豹一は多鶴子から良い待遇をされていることになる。並んで歩いているだけでも、羨望に価するのだ。さすがに豹一はすれ違いざまにしげしげと見て行くひとびとの眼のなかに、それを読んだ。
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