する反感で拭って起ち上った。
「これで失礼します」
こともあろうに、折角新しい珈琲が来た途端に、帰るといい出した豹一に、多鶴子は驚いてしまった。
「まあ、いいじゃありませんの。もう少しゆっくりして下すっても……。そんなに早くお帰りになったら、私怒りましてよ」
本当に怒ってしまった。そして、いま帰られては困ると、多鶴子は必死になって豹一を引き止めた。そんな自分を浅ましいと思うぐらいだった。豹一も、なぜこんなに引き止められるのかと、不思議でたまらなかった。とにかく熱心に引止められたので、豹一はそれを振り切って帰ることに、ちょっとした満足を想った。
「もう、こんなに更くなりましたから……」そう言い捨てて、扉を押した。そして、階段を降りて行った。
「あら、お帰りですの?」女中が玄関へ顔を出した。
豹一はそれに答えず、汚い靴を突っ掛けると、大急ぎで出て行った。犬の遠吠をききながら、住吉線の姫松の停留所まで行き、豹一はやっと車を拾った。帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情が、なぜか頭を去らなかった。
女中は、豹一を見送ってしまうと、応接間へ後かたづけの顔ではいって行った。彼女はなにか不満だった。そんなに早く帰ってしまうと思っていなかった。泊って行くものと決めていたのである。彼女の女主人とどういう関係の男か見当もつかなかったが、ともあれ泊って行ってほしかった。それが言葉も掛けずに、帰ってしまったのである。寂しかった。(私のような女中風情には言葉も掛けて下さらぬのが当り前だ)
しかし、なにも女中だけには限らなかった。いくらか違うが、彼女の女主人だってそれに似た気持を味わされてしまったのだ。女中がはいって行った時、多鶴子は長椅子に腰を掛けたまま、身動きもせずに、呆然としていたのである。
「お泊りじゃございませんでしたのね」女中がそう言った時、多鶴子ははじめてわれにかえった。
「わかってるじゃないの。誰が泊めるの? あんな新聞記者!」多鶴子は叱りつけるように言った。
実は彼女は豹一を引止めた時、夜更けのことでもあり、泊めてやるべきだと思っていた。ところが、女中にそう言われてみると、なにかそんな自分の考えははしたないもののように思われたのだ。帰りぎわに豹一が言った「もうこんなに更くなりましたから……」という言葉が、妙に皮肉な響きをもって想い出されるのだった。多鶴子はこんな夜更に豹一を家に伴って来たことを、軽はずみだったと、はじめて後悔した。
女中はひそかに心を寄せた男をそんな風に言われたので、ふと悲しくなった。が、さすがに敏感に、多鶴子の怒りを察して、それに順応した。
「ほんとにそうですわね。あんな新聞記者! それになんですわ。生意気すぎますわ。挨拶もせずに帰って行ったりして……」
女中は、豹一が多鶴子に挨拶をして帰ったのか、挨拶もせずに帰ったのか、知らなかった。だから、この言葉は彼女自身のことを言ったに過ぎなかった。ところが、全く多鶴子にとっては、豹一は「挨拶もせずに帰って行ったりして」しまったのである。いや、それどころか、彼女の引止めるのも振り切って帰ってしまったのである。(何か腹の立つことがあったのだろうか?)
考えてみて、なかった。まさか、女中の赤い手を見たのが原因だったとは、気づく筈もなかった。原因がないとすれば、多鶴子にとって全くこれ以上に自尊心を傷つけられることはなかったわけである。しかも、肝腎の新聞記事に就て一言も触れぬさきに帰られてしまったことは、かえすがえす立つ瀬がなかった。
女中の言葉は、だから、多鶴子には余程痛かった。が、多鶴子はふと、さっき女中が変な眼付で豹一をうっとり眺めていたのを想い出した。それで、多鶴子はちょっと慰まった。
(この娘《こ》、嘘を言ってるわ。あの新聞記者に惚れてるのに、あんなことを言ってる! ……そうだ。あの新聞記者は丁度この娘が恋人になるのに適しいような男なんだわ!)多鶴子はそう思って、豹一をさげすむことにした。
(あんな男を相手に腹を立てるのは、いっそ恥しいことだわ!)
(つまり、あの男の相手は女中だけで結構)
自分の心に無理にそう言いきかす必要があるほど、豹一のことが頭にこびりついて離れなかったのである。
彼女は、このままで済ませぬと思った。だから、彼女は翌日豹一の社へ電話を掛けるという軽はずみなことを、全く思い掛けずやってしまったのである。
六
夕刊第一版の原稿〆切は正午だった。
昨夜の疲れですっかり寝すごしてしまった豹一が出社したのは、もう十一時近かった。豹一は尾行記の原稿を〆切時間に間に合わせるため、大急ぎで4B《しびー》[#「4B」は縦中横]の鉛筆を走らせていた。
鉛筆の芯が折れた。
「給仕《こども》! 鉛筆だ!」
普通の時なら、給仕に用事を吩咐たり出来なかったのだが、急いでいたから、先輩たちの口調を真似てそう呶鳴った。だが、悲しいことには、彼はまだ新米だと見られていた。おまけに若い。誰も鉛筆を持って来なかった。豹一は赧くなった。すると、
「よう、鉛筆だよ!」豹一のところへ、鉛筆を持って来てくれた男がある。見ると、土門だった。
「あ、済みません」豹一は嬉しかった。
「金貸してくれ! 五十銭で良いよ」いつものでん[#「でん」に傍点]だと苦笑しながら、机の上に五十銭銀貨を置くと豹一は再びザラ紙の上へ尾行記を書き続けて行った。
土門は銀貨をズボンのポケットに入れながら、
「いこう熱心でげすな。いったい何の記事?」訊ねかけて、豹一が答えぬ先に、「あ、なるほど。村口多鶴子の……。代役恐縮だね。あはは」笑った。豹一はふと顔をあげて、
「村口多鶴子っていったいどんな女優なんですか? なにをしたんですか?『罪の女優』ってなんのことですか?」ほかに訊く人もなかったから、土門と顔を合せたのを良い機会だと思って、訊いてみた。
「おや? 知らないのか? こりゃ愉快だね。村口多鶴子の一件を知らん新聞記者がいるとは愉快だよ。ことにそいつの尾行を書くっていう手合が知らぬと来ては、あはは、たまりまへんよ。ぞくぞく嬉しくなりまんがな。朝っぱらからあんまり喜ばさないで頂戴ね。へ、へ、へ、……」嬉しそうに笑っていたが、ふと真顔になると、
「本当に知らないの?」
「ええ」
「そうか、じゃ教えてやろう。村口多鶴子ってのは、ありゃ君つまらない奴だよ。良い役をつけて欲しさに、監督とくっつきやがった挙句、到頭カル焼みたいに肥り出して来たお腹を、あっという間にもとのスタイルに整形したというかどで、ちょっと来なさい――そんな奴だよ。それで謹慎してりゃ、未だ可愛いが、よくよく人気稼業が忘れられんと見えて、しゃりしゃり『オリンピア』へ現れて来るって代物だ。酔っぱらって書けなかったいいわけじゃないが、あんな奴の提灯持記事を書くのは、おら真平でがんすよ。あはは」土門は一気にまくし立てると、「だが、君は役目だから、せいぜい書きたまえよ、はじめての記事だろう? 頑張って書きたまえ。じゃあ、また……」と、言いながら、立ち去ってしまった。
なるほど、そんなわけだったかと、豹一はもう書き続けるのがいやになった。じつは彼は提灯を持って書いていたのである。豹一はいきなりいままで書き綴って来た原稿用紙を破ってしまった。そして、新しいザラ紙に「1」と番号をつけた。
やがて、豹一は土門に刺戟された辛辣な文章で書きはじめた。「止」と終止符号を書いたのはもう正午近かった。豹一は原稿を読みながら、編輯室を横切って、編輯長のところへ持って行った。そして、出て来ると、給仕が寄って来て、
「あんた、昨夜『オリンピア』へ行きはりましたか?」と、訊いた。そうだとうなずくと、給仕は、
「そんなら、あんたに電話が掛ってますわ」小莫迦にした口調で言った。
豹一の名はわからなかったから、昨夜「オリンピア」へ来た人を呼んでくれと、掛けて来たのは村口多鶴子だった。
電話口へ出て、それと知ると、豹一は周章てた。それでなくとも、豹一はこれまで電話というものを使った経験が余りなく、ことに社でははじめてである。豹一は真赤になって、はあ、はあと下手な返辞ばかりしていた。
「昨夜は大変失礼しました」声で豹一だとわかると、多鶴子はそう言った。
「はあ」失礼したのは自分の方ではなかったかと、豹一はふと昨夜帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情を想い出した。
「あのう、ちょっとお話したいことがありますの。いま、お手すきでしょうか」
「はあ」
「では、会っていただけます?」
「はあ」
「心斎橋の不二屋でお待ちしていますわ」
「はあ」
「すぐ来ていただけます?」
「はあ。不二屋ですね」豹一はびっしょり汗をかいていた。断り切れなかった。
いま、彼女のことを散々にこきおろした記事を書いたばかりではないか。豹一はすっかり恐縮していた。もともと彼女には反感をもっていた筈だった。ことに、土門の話をきいただけに一層その反感に油が注がれている筈だ。だから、むやみに恐縮するのは変な話だったが、その反感をすっかり文章に出してしまったいま、無理にその反感に頼ろうにも、効果は少かった。それに面と向っての話ではないだけに、いつもなら、その美しい顔から受ける冷たい感じに反感を覚えることもなかったわけだ。ひとつには、多鶴子の電話を通した声は例の重みのあるしわがれた響きがなく、案外に透き通った優しい響を伝えていたのである。
電話機を掛けると、豹一はオーバーをひっ掛けながら、社を飛び出した。
不二屋へはいって行くと、多鶴子はさきに来ていて、手袋をはめた指を一本あげて豹一に合図した。
「お呼び立てしまして……さあ、どうぞ!」多鶴子に言われて、豹一は、赧くなりながら、向いあった席に腰を下した。
テーブルに両手をついた時、豹一ははっとした。掌に黒い墨のようなものがついていたのだ。はっと手をひっ込めた拍子に、(鉛筆の粉で汚れたのだな)と、思った。つまり、夢中になって多鶴子の尾行記を書いた証拠なのだ。豹一は顔もようあげず、痛い気持でしきりに掌をズボンの膝でこすっていた。
何を飲むかときかれたので、豹一は珈琲だと答えた。多鶴子はボーイを呼んで、
「お珈琲にお菓子、……それから、私はクリーム、……クリームはなに……?」
「ヴァニラだけでございます」
ボーイが言った。
「それでいいわ」注文し終ると、多鶴子ははじめてゆっくりと豹一を観察した。
そして驚いた。はいって来た時の、おかしいほど真赤になったとはてんでちがって、いま豹一はいくらか蒼ざめた顔にむっとした表情をうかべていた。じろりと多鶴子を見あげた。その眼の色に、かすかな敵愾心さえあった。(なんという表情の変り易い男だろう)多鶴子はあきれてしまった。
実は、なにごとにつけてもけちをつけたがる豹一の厄介な精神は、全く莫迦げたことだが、この時も多鶴子がアイスクリームを注文したことに憤慨していたのである。豹一に言わせると、寒中アイスクリームを食べるのは気障だというのである。ことに多鶴子のような若い女が人前で食べるのは気障だというのである。
学校時代ある夜おそく豹一は友人の赤井と野崎と連立って、京極裏のスター食堂へ行った。寒中のことで、ことに京都は底冷えがひどく、彼等はストーブの傍に椅子を寄せて陣取った。なにを食べようということになると、食べることにかけては全く意地汚い野崎が、いっぺんアイスクリームを食べてみたいな、去年の夏から食べたことあらへんから、と言い出した。すると、赤井がすかさず、うん、おれもそれ食べたいと、思ってたんだと、応じた。毛利、君はときかれたので、豹一は異を樹てるというより、極く普通のことだが、珈琲を注文し、そして、彼等が肩のあたりをぶるぶるふるわせながら、アイスクリームを噛じるようにのみこんでいるのを、にやにや笑って見ていた。すると、赤井は、寒中のアイスクリームの味を知らんとは、お前田舎者だぞと歯を鳴らしながらいった。
そのことを豹一は想い出していたのだ。しかし、その時田舎者だといわれたが、豹一はそんなに腹が立た
前へ
次へ
全34ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング