ずくような期待から、さすがにぶるぶるふるえが来たのである。多鶴子は佐古の隙をうかがって逃げるという、映画的な場面を頭に描いた。
運転手は直ぐ出て来た。そして、佐古に眼くばせして、扉をあけた。佐古は先に降りて、「どうぞ」と、莫迦ていねいに運転手の傍に立って、多鶴子を促した。
じっとクッションの隅に身をすくめていることは、多鶴子の矜恃が許さなかった。多鶴子は黙ってうなずき、車の外へチョコレートの靴下に包まれたすんなりした足を伸ばした。佐古は身ぶるいした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなんだか大それたことをしているような気がするほどだった。
その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて、辷りこんで来た。そして停った。
「あ、いかん、停めたらいかん!」豹一は思わず叫んでいたが、頓間な運転手は多鶴子の車を掴えることばかしに気を取られていたので、豹一がそう叫んだ時、既にまるで当然のようにブレーキを掛けてしまっていた。
(まずいところで停めやがった!)尾行して来たのをわざわざ知らせるようなものではないかと、豹一はいきなりオーバーの襟を立てて、顔をかくそうとしたが、多鶴子は素早くそれを見つけて、「あ!」かすかに叫び声をあげた。
(あ、この人は……)インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。(あの新聞記者だ!)咄嗟に想い出すと、多鶴子はなんのために豹一がそんなところへ現われたかを考える余裕もなく、突然身をひるがえすと、豹一の車へ駆け寄った。
「乗せて下さらない?」そして、返辞も待たずに、豹一の傍へ転り込むように飛び乗ってしまった。
柔い腰の感触がいきなり豹一の体を敲いた。思わず身を避けた拍子に、強い女の香がぷんと鼻に来た。豹一は一層周章ててしまって、咄嗟に口も利けなかった。
「こら、待て! 待ちくさらんか!」驚いた佐古がそんな芝居掛った科白を、地金の柄のわるい調子で言った時、豹一の車は多鶴子を乗せたまま、再び深夜の街へ走り出していた。
豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。彼は豹一の顔から察して豹一を多鶴子の情人だと、簡単に決めていたのである。だから、命じられなくても、充分、心得ていたわけだ。
五
「あ、そこで停めて頂戴」
小綺麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。
「ここですの。私の家……」そう言って、多鶴子はクッションから腰を浮かせながら、「どうもありがとうございました」
豹一に礼を述べかけた拍子に、(そうだ! この人を家へ案内しよう)だしぬけに思いついた。
謝礼の意味からいっても、その必要はあるわけだと思った。わざわざ送ってくれた人を、帰らすのは失礼にあたると、多鶴子は自分に言いきかせたが、じつはこのまま帰らすわけにはいかぬわけがほかにあった。今夜新聞にかかぬように頼むということが残っていたのだ。
「御迷惑でしょうが、寄って行って下さいません? 夜分のことでなんにもおもてなし出来ませんけれど……」多鶴子はそう言った。
そんなことを言われると夢にも思っていなかったから、豹一は不意打をくらった気持でぱっと赧くなり、
「いや、ここで失礼します」正直な返事だった。じつは豹一はここまで同乗して来るのさえも、窮屈で仕方がなかったのである。この上、家のなかまではいって息のつまるような気持を味わせられるのは真平だと思ったのだ。運転手が羨んだ車中も、豹一には長い道中だった。やっと車が停って、折角やれやれと思ったところではないか。全く運転手に金を払うということさえなかったら、途中でも逃げ出したい気持だったのだ。
ところが、その金は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡してしまった。運転手はじつは「金はいくらでも出す」といった豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。
(男ならこんなに呉れるまい)運転手は金を貰った以上、豹一だけを乗せてもう一度走るのは損だと思った。二重取りもさせないほどの多額の金だったのである。それに、二重取りしたくとも、出すまい。「さっき女に貰ったじゃないか」と着いた時いわれるにきまっている。そう思ったから、運転手は、豹一がなんといっても走らなかった。
「もうガソリンが切れてまんねん。どこまででっか?」
「下寺町だ」
「入庫の方角と違いますわ。あきまへん、降りとくなはれ」結局、豹一は降りざるを得なかった。
車は後戻りすべく、夜更けの空気のなかに爆音を響かせて、不格好に迂回しはじめた。ぽかんと突っ立っていた豹一は周章てて飛びのいた。自然、豹一は多鶴子の家の玄関に近寄った勘定になった。
「どうぞ!」多鶴子が言った。
豹一は多鶴子の言うままになるより仕方なかった。そんな夜更けの住宅地では、もう帰る車を拾うのも容易ではないと諦めた。しかし、その夜更けという点で、豹一もこだわっていた。「夜分のことで……」と、さっき多鶴子も言った筈だった。が、豹一は、僅かに仕事という点を自分への口実にすることが出来た。ひょんなところで新聞記者であることを自覚するところを見れば、まだまだ豹一は新聞記者ではなかった。
自動車の音でそれと気づいたらしく、玄関に灯がつけられた。
「只今!」多鶴子が声をかけると、
「お帰り遊ばせ」なかから女中の声がして、戸をひらいた。
「どうぞ! お先に……」
言われて、豹一が玄関にはいると、女中が頭を下げていた。そろえて下しているその手を見て、豹一はおやっと思った。痛々しく赤ぎれて、ところどころ血がにじんでいるとも見えた。豹一はだしぬけに母親のことを想い出した。胸がしめつけられる思いだった。
多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると、階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。
「お帰り」母親は長火鉢の前に背中を猫背にまるめて、ちょこんと坐っていた。
「未だ起きていらしたの?」
「いや。いま寝ようと思っていたところだよ……」母親はなにか狼狽して、「……炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って……」
そんな風に弁解する母親が、多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。昨夜も多鶴子が帰るまで寝ようとしなかった。長火鉢の前でじっと坐ったまま、欠伸ひとつせず待っていてくれたのかと、多鶴子はそんな母親の心配がむしろ悲しく心配しないでも良い、大丈夫だ、さきに寝ていてくれと、あれほど言ったのである。ところが、やはり今夜も起きて待っていた。そして心配の余り寝られなかったという気持をごまかすために、炬燵なんかひきあいに出しているのだ。以前はこんな風ではなかった。撮影の都合で帰宅がおくれるなど珍らしくなく、思いがけぬ徹夜撮影で家をあけることさえあったのだが、わざわざ電話で断るまでもなく、母親は安心して寝ていたのである。
女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。ダンサーになりたての頃、一度無断で家をあけたことがあった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらったのだが、夜なかに公衆電話が掛って来た。母親から掛けて来たのだった。事情がそれとわかって、母親はほっとしたが、それでも余程周章てたと見えて、娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった、――心配したのはあとにもさきにもその時だけで、以後帰宅がおそくなっても安心して居れたのである。信用していたのだ。
それが、例の事件があってからは、もう娘の身辺が心配で心配でたまらなくなった。ことにオリンピアへ出る昨日今日がそうだった。事件が一段落すんで、やれやれと骨身を削られて細った肩をなでたのも束の間だ。もう男たちの遊び場所へ顔出ししなければならぬようになってしまったのだ。二度とあんな間違いは起してくれるなと、「只今」という多鶴子の声をきくまでは、長火鉢の傍も離れられないのだった。
そんな風に心配されているのかと思うと、多鶴子はなにかたまらなかった。しかもそうして心配している顔をかくそうとする母親の気持がわかるだけに、一層たまらなかった。
「莫迦ね。早く寝みなさいな」しかし、母親はすぐには起とうとしなかった。なにかおろおろとして多鶴子の顔色をうかがっているのだった。
母親は今夜誰か男の客があることを、敏感に知っていた。思わず二階の方へ聴耳が立って行くのだった。無理もなかった。こんな夜更けに男の客なぞここ二年ほど絶えてなかったのである。二年前にはあった。いきなり夜おそく訪ねて来て、多鶴子に紹介された。それが監督の矢野だった。いつも多鶴子がお世話になりましてと、ぺこぺこ頭を下げると、ああ、ああと鷹揚にうなずいていたが、その鷹揚さは多鶴子を人気女優に仕上げてやった監督としてのそれよりも、既に多鶴子の心身を自由にしてしまっているという強味に裏づけされていた。残酷な尊大さで、矢野は、「あんたも良い娘を産みなすったな」と言っていたが、その晩黙って泊って行った。それからもちょくちょく来た。きけば矢野には妻子もあるということで、その人達にも済まぬことだとひそびそと多鶴子に迫っていたが、多鶴子は、なにいいのよ。そう言っている内に、ふと多鶴子の体の異状に気がついた。もはや、ものも言えず、悲しい眼付きで娘を見ていたが、やがてそれが思い過しだったと、ほっとした途端に、なんとしたことか、娘が警察へ呼ばれた。あとでその理由がわかり、そんなことをさせる位なら、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。はじめて来たときのあの矢野の尊大な態度がいつまでも想い出されるのだった。いまも母親はその晩のことを想い出し、ふっと不安な眼を二階へ向けた。が、
「お客さんは誰……?」とはきけなかった。
そんな母親の気持を多鶴子は敏感に察した。
「お客さんがあるのよ……」自分の方から言い出して、
「新聞社の方よ。私の尾行記を書きたいんですって。うるさいのね。新聞記者って……。だけど、行かないとわるいから、ちょっと顔出しして来るわ」
そして、先に寝んで頂戴と、次の間にはいって、イヴニングを和服に着替えながら、多鶴子はそんな風に言ったことを、若い新聞記者にはちょっと済まなく思った。そのため彼女は美しい女特有の本能から、念入りに化粧をしなおした。
「どうもお待たせしました。――先ほどはありがとうございました」
そして、向い合って腰を下すと、豹一が出された珈琲に手をつけていないのに素早く気がついて、
「さあ、どうぞ。冷めないうちに……」しかし、待たされている間に、すっかり冷たくなっているのに気がつき、
「あら、もう冷たくなっちゃいましたね。御免なさい」尻あがりの口調で言って、女中を呼ぶためにベルを押した。全く申分ないほど、愛相がよかったのである。
若い女中は一目見た途端に、豹一を好いてしまった。映画女優のところへ女中に雇われるだけあって、彼女は非常に映画趣味があったから、ぶくぶくのオーバーを不恰好に身につけた豹一を見ると夜ふけのせいもあって、此の美少年は「男装の麗人」ではなかろうかと思ったほどである。全くだしぬけにはしたない恋を感じてしまった女中は、可哀相におどおどして応接間へ現れた。珈琲茶碗を差出すのがたまらなく恥しかった。汚い手を見せねばならぬからであった。
ところが、もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとすれば、それは彼女が大急ぎでべたべたにぬりつけた鼻の頭ではなくて、彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかも知れない。豹一にとっては、それだけ切りはなして見ただけでも、その手は胸をうつに充分だった。母親の手を連想するからであった。ところが、豹一はその手を豪華な装飾に輝いている応接間で見た。豹一は一層胸を打たれて、弥生座の舞台で踊っていた東銀子の赤い足を不意に思い出した。豹一は思わず涙が落ちそうになったのを、周章ててその部屋に対
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