新聞社の方……」傍についている佐古は器用に掌を使いながら、そう紹介した。
「どうぞよろしく」仮面のように笑いを釘づけながら、村口多鶴子は妙に重みのあるしわがれ声で挨拶した。
「はあ……」豹一は情けないほど小さな声が曖昧に出ただけで、われながらぎこちなかった。なんだか胸がどきどきした。醜態にも酒を吐き出しているところを見つけられたと、眼が霞むほど赧くなってしまった。
「失礼します」と多鶴子はそう言って、豹一の向い側に腰をおろした。微笑の膠着したその顔は明かに、豹一の質問を催促していた。
(いよいよ喋らねばならない!)豹一はテーブルの上の空のグラスを手にとって、神経質に弄んでいた。
佐古はそれを見ると、豹一がお代りを催促しているのだと、感ちがいして酒を取りに行くべく、その場をはずしてしまった。あとには豹一と多鶴子は無意味に残されて、物も言わずに向き合っていた。目まぐるしく交錯する赤、青の光線が思い切ってはだけた多鶴子の白い胸を彩っていた。多鶴子の顔が正視出来ないので、豹一は自然胸のところばかり見ていたが、赤く染められた胸の静脈が急にぴりりと動いた。そして、多鶴子は微笑の仮面を不意にはずして、眉をひそめた表情になった。余り豹一が黙ってばかしいるので、多鶴子もいらいらして来たのである。しかし、豹一はなおも口が利けなかった。どんな風な質問をして良いのか、さっぱり見当がつかなかった――というよりも、むしろ気遅れがしていたので。
多鶴子は莫迦にされているような気がした。無躾に質問される方が未だしもだと、思うぐらいであった。多鶴子はふっと顔をそむけて、窓の外を見た。道頓堀川の暗い流れに、「オリンピア」のネオンサインの灯影が歪《いびつ》になって、しきりに点滅していた。寒々としたながめだった。(なぜこんなところに働く気になったのだろうか?)改めてそのことが後悔された。昨夜から引続き、泣きたいぐらいの気持であった。自分の人気への自信や顧慮というものがなかったならば、とってつけたような笑い顔など、みじめ過ぎるところではないか。うかうかと佐古の甘言に乗ったという想いが強かった。彼女の教養はこの「紳士の社交場」に於ける自分の姿をきびしく批判していた。蝶々のように客席から客席へ飛びまわっている自分の姿を、先生が見たらなんと言うだろう? 中途退学だが、彼女は広島県のある女学校へ通っていたことがあり、その時可愛がってくれた先生はアララギ派の歌人だった。因みに彼女はアンドレ・ジイドが愛読書だと、かつて映画雑誌のハガキ質問に答えたことがあった。
彼女は余っ程席を立とうかと、思った。そんな彼女を僅かに引止めたのは、豹一の少女のような睫毛の長い美しい顔だった。ぶくぶくのオーバーの下に大人に成りきらないきゃしゃな体がかくれているのかと思うと、彼女は本気になって腹を立てることも出来なかった。生毛まで赤くして、何か言おうと力んでいるさまを見ると、彼女は、ふっとおかしくなり、
「あのウ、社はどちらですの?」随分好意を示したのだった。
ところがその時豹一は、口も利けずにいる情けない状態から逃れ出るために、散々苦心した挙句、昼間新聞を見てむやみに彼女に腹を立てていた時の気持を無理に呼びおこして、(この女に口も利かないなんて、お前は軽蔑に価するぞ! なんだ、こんな女ぐらい……、じかに見れば年増じゃないか?)[#「年増じゃないか?)」は底本では「年増じゃないか?」」]と、ひそかに喧嘩腰になって、カッと眼を光らせていたところだった。だから、多鶴子の方から先に言葉を掛けられて見ると、物事にこだわり易い豹一は、先を越されてしまったと、ますます屈辱を感じてしまった。自然、多鶴子の問に答える豹一の言葉は普通のなまやさしい答えでは済まされない筋合いになっていた。
ところが、運良くそこへ佐古が洋酒の瓶をもって現れたので、豹一は苦しい気持を押してまで失敬なことは言わずに済んだ。
「どないだ? 東洋新報さん。ネタがとれましたか?」
佐古が「東洋新報さん」といってくれたので、豹一はもう多鶴子に答えなくも良いとほっとして、
「はあ、とれました」と、思わず言った。多鶴子はその言葉にあきれてしまった。その顔を見ると、豹一もさすがに、(嘘をつけ!)と、苦しかった。
「そんならもう酔ってもよろしいな。一つ、行きましょう! こら、誰にも罎にもさわらさん内緒の洋酒でっさかいな、じイわり味わうとくれやす」
ボーイの手を借りずにわざわざ持って来てやったのだという顔で、佐古は豹一のグラスに注ぎながら多鶴子に目くばせした。多鶴子は心得て立ち上り、
「どうぞよろしく」席をはずしてしまった。豹一はあわてて、
「はあっ!」と、わけのわからぬ掛声を挨拶がわりに唸りあげて、多鶴子の後姿を見送った。
「さあ、いただきまひょ」佐古は飲めと催促した。豹一は眼をつむって、噛みちぎるように、一気に飲み乾し、グラスを佐古の手に渡した。
「凄い! 凄い! お水は……?」
「結構です」実は欲しかったのだが、わざわざ言われると、持前の負けずぎらいからそう答えざるを得なかったのだ。
余程悪質のジンだと見えて、急激に廻って来た。豹一は醜態を見せぬ内にと思い、
「お忙しいところをどうも……」ぶらんと頭を下げて、わりに新聞記者らしい言い方でそういうと、ふらふらと「オリンピア」を出て行った。
出ると、寒い風がさっと来た。肩をすくめた拍子にぐらぐら目まいがして、道頓堀の灯が急に真っ白にぼやけて、視線になだれこんで来た。かと思うと、いきなり遠ざかり、頭の中を赤い色が走った。
無我夢中で食傷横町の狭くるしい路次を抜け、法善寺の境内にぽかりと出た。凍てついた石畳の上にぽつんとベンチが置かれてあるのを見て、豹一は這うようにして、それに腰を下ろした。途端にげっと吐き気を催した。動物的な感覚がこみあげて来て、豹一はたまり切れずげッ! ばッ! とやった。石畳の上へ吐きだされた汚物からかすかに湯気があがるのを見ながら、豹一は今夜の仕事が未だ残っていることをふと想った。金刀比羅天王の赤い提灯がひっそりと揺れていた。
四
夜の一時を過ぎると、気の早い|拾い《バタ》屋が道頓堀通のアスファルトへ手車を軋ませながら、薄汚い姿を現わす。それと前後して、どこから集って来たのか、おびただしい数の自動車が夜中の葬式のようにずらりと並ぶ。カフェの灯がぽつりぽつりと消されて行って、やがてあわただしい暗さがあたりに漂うと、アスファルトは急に凍てついた白さに冴える。そんな暗さの中に最後まで残っていた「オリンピア」の灯も、やがてひとつひとつ消されて行き、ほの暗くなった表口からショールにくるまった女給たちがぞろぞろと出て来て、寒い肩をすぼめていた。ひとり毛皮の外套を着た女がすらりとした長身で、飛ぶように出て来て、五六台並んだいちばん前の車に駆け寄った。
扉がひらいた。
「さあ、どうぞ!」そう言ったのは、中折を阿弥陀にかぶった佐古だった。
「お送りしまひょ!」その言葉にその女はステップから足をおろした。
「あらいいんですの」村口多鶴子だった。
「まあ、まあ、ちょっとその辺まで送らしとくれやす」そう言って、佐古はいきなり多鶴子の耳に顔を寄せ、
「早くせんと経営者《おやじ》が来まっせ」意味あり気に囁いた。
その言葉と佐古の掌に押されて、多鶴子はさっと車内へ飛び込んだ。佐古はあとに続いて、中腰のまま扉を閉めながら、「帝塚山まで……」と、なかば多鶴子にきかせる気持で、運転手に命じた。多鶴子は佐古の言った行先に安心したさまで、はじめてクッションの奥へ体をずらした。そして車が動き出すと、習慣でコンパクトをちらと覗いた。眼尻の皺が夜更けの時間を見せていた。(今日いちにちの役目もやっと済んだ!)
しかし、未だ済んでいない者があった。佐古と、もうひとり豹一だ。
豹一は寒い風に吹かれながら、多鶴子が「オリンピア」から出て来るのを、浮かぬ顔で待っていたのだった。女給帰りを待ち受けているらしい男たちにまじっていると、(なんという仕事か?)と、むかむかして来た。しかし、やっと多鶴子が出て来ると、さすが豹一ははっと緊張した。なるべく多鶴子に見つけられぬようにと、後の方に並んでいる車のかげにかくれたが、多鶴子はむろんそんな方へは一瞥もくれず、さっさといちばん前の車に乗ってしまった。豹一はあわてて、「あの女の車をつけてくれ!」と、言いながら、運転手の返辞も待たずに飛び乗った。オーバーの長い裾が邪魔になって、文字通り転ったが、しかし眼だけは多鶴子の車から離さなかった。
「早くやってくれ!」多鶴子の車が動き出したので、豹一は気が気でなかった。
運転手はしかしのろのろと扉を閉めながら、
「どこまででっか?」
「何べん言わすんだ? あの車をつけてくれ。あの女の車」豹一は、こいつは耳が遠いんだと思うことによって腹立って来る気持を押えることにした。「早くやってくれ!」
「そない急《せ》かしたかて、前がつかえてまんがな」
「後へ下れば良いじゃないか?」豹一は到頭腹を立てた。
「後へ下ったら、二つ井戸まで行ってしまいまっせ。なんなら高津さんまで行きまひょか」
ここで喧嘩していては、多鶴子の車を見失うと思ったので、豹一は、
「頼む、早くやってくれ!」と、下手に出た。この「頼む」という言葉でやっと動き出した。そして巧みに他の車の間を抜け出た。
「金はいくらでも出す!」この言葉をもっと早く言うべきだった。急にスピードが出た。そして、徐々に前方の車との距離を詰めて行った。豹一はほっとした。が、相かわらず中腰のままだった。
多鶴子の車は道頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。カーブした拍子に、多鶴子はちらと眼をあげて走っている方角をたしかめたが、すぐまたコンパクトを覗いた。つまり、そうして居れば、佐古の相手にならなくても済むのである。車は電車通に添うて日本橋筋一丁目の方角へ折れて行った。
やがて車は日本橋筋一丁目の交叉点を霞町の方へ折れて行った。豹一の車もあとに続いていた。
多鶴子の車が霞町から天王寺公園横の坂を登って行くと、佐古は、
「寒い、寒い、隙間風がはいって来よる」と、言い出した。そして、坂を登る動揺を防ぐために、半身乗り出して運転台の方へ寄り掛っていたが、いきなり、「そこを閉めてくれ!」といいながら、運転台の横の窓ガラスを閉める真似をした。真似をしたというのはじつははじめから閉っていたからである。その動作の咄嗟に、佐古は五円紙幣を運転手の膝の上へ落し、何やら囁いた。
多鶴子はおやと思った。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。迂回するためかと思ったが、車はそのまま真っ直ぐ天王寺の方へ走って行った。そのかすかなタイヤの軋みを多鶴子ははっと不気味にききながら、
「方角がちがってよ。運転手さん! 引きかえして頂戴!」思わず叫んだ。
しかし、佐古の意を察している運転手は、よくあることやと苦笑しながら、それに耳を藉そうとはしなかった。
「佐古さん!」多鶴子は佐古の顔をきっとにらんだ。「車を引きかえして頂戴!」
「そら無茶でっせ。わてはなにも運転手さんやあらへん。引きかえそうにも、わてが運転するわけにいきまへんがな」済ましこんでそう言うと、あははと、多鶴子の白い眼へ笑いをかぶせた。多鶴子は叫び出しそうになったが、さすがにかつての人気女優だった。やっとこらえて、十分用心深い表情のまま、じっと車の方向を見つめていた。
阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停った。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。古びているが、映画のセットにこれとそっくりの家が出て来る。
運転手が出て来るまで、佐古はこの男に似合わぬ神経質な手つきで、煙草を吸っていた。電機工の時分から憧れていた此の美しい女優を自由にすることが出来るというう
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