ろかそんな理由のない金は受け取れぬと、ヒステリックに拒み続けていたのに、まあ、まあと無理に渡されたのだから、彼女は腹を立てていた。しかし、そうした佐古のやり方も、もしこれが教養のある人間がやったことだったなら、彼女のなかにある教養がそれに反撥したことであろうが、佐古のような人間がやったのであってみれば、彼女も顔を赧らめることが少しで済んだ。こういう下卑た人間の前では、女というものは、異国人の前に於けるように、いくらか羞恥心を忘れるものであろうか。ともあれ、彼女は佐古のやり方にだんだん馴れて来て、そんなに腹も立てなくなった。むしろ佐古をさげすみ、微笑を以て佐古の勧誘の言葉をきくようになった。佐古は遂に成功した。
二ヵ月にわたる口説き落しの努力が報いられたので、さすがの佐古も余程嬉しかったと見えて、自祝の意味もあり、多鶴子がいよいよ「オリンピア」に現れる晩、それは昨夜だったが、燕尾服を着用したのである。おまけに佐古はこともあろうに、多鶴子とおそろいの真紅の薔薇を、燕尾服の胸にぶら下げたのである。しかし、誰もこれを莫迦莫迦しいこととも思わなかった。いや、注意すらしなかった。人々は美しい村口多鶴子にすっかり惹きつけられてしまい、ある者は感嘆の余り異様に興奮し、佐古なんかに注意をはらう余裕なぞてんで無かったのであった。
大成功だった。彼女を招聘するために佐古が惜し気もなく使った機密費の額に最初文句をつけ通しだった経営者も、純白のイヴニングの裾さばきも軽やかな、匂うばかりの村口多鶴子を見た途端、慾も得も忘れてしまった。いや、それを想い出したところで、客止めの盛況を見ては、文句のなかったところだ。
「良え女子《おなご》を入れてくれたな」経営者は佐古に一言だけ感謝の言葉を与えた。
この一言がしかし佐古をぎくりとさせた。経営者の眼は多鶴子の胸から腰へ執拗に注がれていた。音を立てるような視線だった。(覘《ねろ》てけつかる)佐古はすっかり狼狽してしまった。
実は佐古が村口多鶴子を「オリンピア」に招聘するために涙ぐましいほどの努力をはらったのは、慾得をはなれた考えからであった。電機工をしていた頃、彼の菜っ葉服のポケットには村口多鶴子のプロマイドがはいっていたこともあった。といって、はじめのうちはべつに取り立てて彼女ひとりに憧れていたわけではない。たいていの美しい女優ならいちように心をそそったものだ。むろん女優に限らなかったろう。ただ、偶然彼女のプロマイドを拾ったというだけの話だった。が、ポケットから出して、つくづく見れば良い女だと思った。こんな女をとひそかに夢を描き、悩ましく思いつめるようになった。トーキーで声をきいて一層心を惹きつけられた。無理にそんな声を出しているとしか思えぬ、しわがれた悩ましい声は、なにもかも知りつくしたような円熟した女の底の深さを囁いて、佐古の好奇心を刺戟した。
だから、彼女を招聘するために、自分でも不思議なほど熱心になれたのだった。経営者の眼の色に彼女への野心を見て、狼狽したのも無理はなかった。なんのことはない、経営者の好奇心を満足さすため努力したようなものだと、佐古はがっかりしてしまった。
売り上げの額がいつもの三倍にもなった大成功ながら、佐古は昨夜欝々としてたのしまなかった。(おれが儲けるわけではあらへん)全部経営者のふところにはいる金だと思えば、阿呆らしかった。おまけに、村口多鶴子も経営者の女になってしまうのだ。いまいましかった。
他の人は知らず、経営者にだけは佐古も頭が上らなかった。張り合う気などとても持てなかった。可哀相に佐古は昨夜一晩中無気力な嫉妬に苦しんで、眠れなかったぐらいであった。が、今夜の佐古は昨夜よりいくらか変っていた。村口多鶴子を諦めるのは未だ早いと思ったのだ。諦めるわけもなかった。経営者と張りあう気持が少しだが生れて来たのだった。いわば、経営者へのひそかな反抗だった。この反抗心は今日店へ来て多鶴子の姿を一眼見た途端、いきなりふくれあがったのだ。
(経営者も糞もあるもんか? 馘首にするならしやがれ。ここを追い出されたっておれは水商売仲間ではつぶしがきく男や。それに、あの女をおれのものにしたら、あの女でおれは食って行けるのやないか)そう思うと、もう佐古の足は自然に動き出して、多鶴子のいる客席の方へ歩き出した。「いらっしゃいませ」
佐古はまず客の方へ挨拶して置いてから、揉手の手をほどき、多鶴子の肩をとんと敲いて、「ちょっと」柱のかげへ呼んだ。
「……? ……」固い表情で多鶴子は寄って来た。強い香水の匂が佐古の鼻の穴の毛をふるわせた。すっかり興奮してしまった佐古はわれを忘れて、ぐっと多鶴子の体へもたれかかるようにしながら、多鶴子が擽ったくて我慢が出来ぬほど耳近く口を寄せて、
「あんたに注意してかんならんことがあるのや。気になってたのや。あのな、おやじを警戒しなはれや。あんたのため思ていうたげてんねんやさかい、よう心得ときなさい」
「ありがとう」多鶴子はひらりと身をひるがえして、元の席へ戻った。
多鶴子には、佐古が言った「おやじ」とは誰のことか咄嗟にわからなかった。が、わかろうともしなかった。警戒すべきは「おやじ」だけではない。どの男だってそうだ。昨夜一晩でうんざりするほど経験させられたのだ。わざわざ呼んでそのような忠告を親切めかす佐古だって警戒すべき一人だと、いえばいえないこともないのだった。そういうことを言われるのも、役目のひとつかと、多鶴子は悲しい心を押えて極めて事務的にきいたまでであった。
しかし、佐古は多鶴子の「ありがとう」という言葉にすっかりのぼせあがっていた。(あの女はおれに感謝してくれとる。あの女は支配人のおれに頼ってくれとる)そう思って、にやにやしていた。佐古のような抜目のない人間でも、いったん女に惚れるとからきしだらしがなくなっていたのである。(ざまあ見てけつかれ!)佐古は心の中でひそかに経営者に向って舌を出した。丁度その時、ボーイがやって来て新聞記者の来訪を伝えた。
「新聞記者?」佐古は眉をひそめた。
新聞記者連には昨日招待状を出し、随分と饗応してやったのだ。おかげで今日の朝刊にはデカデカと村口多鶴子の記事が写真入りだった。宣伝にはなったと、佐古はその効果を一応は喜んだ。しかし、今の佐古としてはなにか人眼のつかないところへ多鶴子をそっとして置きたい気持であった。騒ぎ立てられるのが怖いのだ。多鶴子を張りに来る客はいまはどいつもこいつも恋敵なのだ。もう新聞記者には用はないのだ。佐古は舌打ちした。
「どこの新聞記者や?」そう言いながら、ボーイのもって来た名刺を見た。
東洋新報記者 毛利豹一
毛利豹一という名刺には全然記憶はなかったが、東洋新報という四字を見ると、佐古には思い出されるものがあった。今朝、佐古は多鶴子の記事を読むために、一つ残らず大阪の新聞へ眼を通した。一つだけ、全然多鶴子のことを書いていない新聞があった。それが毎週「オリンピア」の広告を出してやっている東洋新報だと知ると、その時佐古はまだ多鶴子の宣伝に情熱をもっていたから、大いに憤慨して、早速東洋新報の広告部へ電話で抗議したのだった。
その怒りが今もなお佐古の心の中に残っていた。佐古は名刺を握りしめたまま、入口の方へ駆けつけた。ボーイはあとを追うて、
「こっちの方です」
出入商人や従業員が出はいりする勝手口の方を指さした。
三
わざと閉店近くの夜十一時過ぎ、豹一はひきずるように着た長いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、「オリンピア」の前へ現われたのだった。
ジャズバンドの音が気おくれした豹一を押しのけるようになかからきこえて来て、道頓堀のアスファルトを寒く乾かしていた。
なんということか、豹一は何度かためらった挙句、ボーイや女給たちが並んでいる正面の入口からはいる気がせず、「男ボーイ入用」「雑役夫入用」「淑女募集」などの貼紙が風にはためいている勝手口から飛び込んだ。
そこにボーイがいて「なんぞ用だっか」とじろりと見られた。あるいは、若い豹一を見てボーイに雇われに来たのだと思ったのかも知れぬ。豹一のようないくらか蒼ざめた、顔かたちの整った青年は、ボーイにうってつけなのだ。
「新聞記者のものですが……」うろたえた豹一は、「新聞社のもの……」というところを、そんなへまを言ってしまった。
「名刺もったはりまっか」
なるほど新聞記者は先ず名刺が要ると土門がいったのはこれだったかと、豹一は正直に作って置いた莫迦に小型の名刺を出した。ボーイはちらとそれを見て、
「はあ、さいですか? いま係の方に来てもらいまっさかい、ちょっとお待ちなすって……。さあ、どうぞ、お掛け下さい」
名刺の効果はてきめんだった。ボーイは急に言葉使いを改め、椅子をすすめた。そして、陰気くさい溜り部屋のドアを押して出て行った。ドアをひらいた拍子に、はなやかなキャバレエの内部がぱっと見えた。豹一は妙に緊張した。
暫く待っていると、燕尾服の胸に薔薇の花をつけた男が下品な感じの顔をぬっと出した。
「私佐古です」そう言ったかと思うと、いきなり、「あんた、東洋新報の方でんな?」と呶鳴りつけるように言った。
「はあ」豹一は相手の顔をしげしげと観察しながら、答えた。
「あんたとこはけしからん」佐古はどう見ても駈出しの新聞記者としか見えぬ、子供っぽい豹一をなめて掛ったのか、のっけ[#「のっけ」に傍点]から喧嘩腰だった。「なんでうちの記事を書いてくれはれしまへんねん。よそさんは皆書いてくれはりまっせ。ほんまにけしからん。書かんのは君とこだけやぜ。どないしてくれる気や?」
豹一はむっとした。「だから今日こうしてわざわざ来てるんじゃないですか?」豹一は「わざわざ」に力を入れて、そう言った。その調子にはまるで豹一の外観からは想像も出来ぬ、鋭いものがあったから、さすがに佐古は、「今日来ても手おくれや」とは口に出せなかった。
(駈出しの癖に威張ってくさる。こういうのがかえってうるさいのかも知れぬ)下手に怒らしてはあとが怖いと、佐古は咄嗟に考えた。(こういう青っぽい駈出しが、得てしてあと先も見ずに慾得もなしに、無茶なゴシップを書きくさるのや)
佐古の顔は急にほころびた。
「それはよう来てくれはりました。さあどうぞ!」まるで打って変ったようにぐにゃぐにゃした佐古は、そう言って豹一をドアの外へ連れ出した。
眼も痛むような明るい光線がジャズの喧噪に赤く青く揺れている社交場が、眩しく展けていた。豹一はもう何ものも眼にはいらぬような興奮した状態になって道頓堀に面した窓側のテーブルへ連れて行かれた。
「さあ、どうぞ!」佐古はソファの方へ掌を出した。
豹一は虚勢を張りながら、いきなりどすんと腰を下したが、スプリングがついていたので、危く転りそうになった。かなり済ましこんでいたので、ぶざまなことにはちがいなかった。佐古の眼が笑ったと、豹一は咄嗟に思った。
佐古は豹一がやっとソファの奥深く収ってしまうのを見届けてから、「では御ゆっくり……」と言って、眼ばかりぎょろぎょろ光らせている豹一をそこに残して、立去ってしまった。
やがて、ボーイが現れて、テーブルの上へ爪楊子入れのようなちっぽけなグラスを置き、それに洋酒を注いで立去った。ビール罎やコップが載っているのならともかく、そんなちっぽけなグラスがぽつりと大きなテーブルの上に置かれた図は、いかにもわびしかった。じっとそれを見ていると、豹一はなんだか恥しくなって来た。豹一は照れかくしにそのグラスを手に取って、一気にそれを口へ流しこんだ。
「あ!」ジンだった。舌を咽喉をさす強烈な刺戟に、豹一は眼の玉までやけるような気がした。驚いて、下を向き床の上へこっそり吐き出していると、ふっと衣ずれの音がして、生温い女のにおいが閃いた。顔をあげると、白いイヴニングを着た女がすんなりとテーブルの横に立っていた。
(村口多鶴子だな?)と、豹一は直感した。
「やあお待たせしました、村口さんです。――こちらは
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