っとそのあたりを見つめていた。
「さあ、もうちょっとの辛抱や。しっかり力みなはれや。聟さんもしっかり肩を抑えたりなはれや。もうちょっとや」
産婆の声をきいていると、豹一は友子の苦痛がじかに胸にふれて来て、もう顔を正視することが出来なかった。
(このまま死ぬのじゃないだろうか?)ふと、そんなことを想って、ぞっとした。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」
いつの間にあがって来たのか、母親が産婆の横にちょこんと座って、念仏を低く唱え、唱えしていた。
豹一は眼をつぶった。
「はあッ」産婆の掛声に豹一は眼をひらいた。友子の低い鼻の穴が大きくひらいた。その途端、赤児の黒い頭が豹一の眼にはいった。そして、まるくなった体がするすると、出て来た。
産声があがった。豹一は涙ぐんだ。いままで嫌悪していたものが、この分娩という一瞬のために用意されていたのかと、女の生理に対する嫌悪がすっと消えてしまった。なにか救われたような気持だった。
「よかった。よかった」と、いいながら、部屋のなかをうろうろ歩きまわった。
「じっとしてんかいな」母親が叱りつけた。
豹一はふと膝のあたりに痛みを感じた。枕元に鋏が落ちていて、豹一はその上に膝をついていたのだった。
その日、産声が空に響くようなからりとした小春日和だったが、翌日からしとしと雨が降り続いた。四畳半の部屋一杯にお襁褓が万国旗のように吊された。
お君は暇を盗んでは、豹一のところへしげしげとやって来た。
火鉢の上へかざしたお襁褓の両端を持ちあいながら、豹一とお君は、
「乳母車《おんば》を買わんならんな」
「そやな」
「まだ乳母車は早いやろか」
そんな風なことを話しあった。やがて、お君は、
「早よ帰らんと叱られるさかい、帰るわ」そう言って立ち上り、買って来た赤ん坊の玩具をこそこそと出して、友子の枕元に置くと、また来まっさ、さいなら。
雨の中を帰って行った。
一雨一雨冬に近づく秋の雨がお君の傘の上を軽く敲いた。
底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂書店
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:伊藤時也
2000年3月18日公開
2005年10月12日修正
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