としても、いったんそれをきいてしまった以上、打ち消しようもないほど、心の曇りは深かった。つまりは、思い掛けぬ銀子への恋情だろうか。それが豹一にふしぎだった。
 二十歳の青年が舞台の上の踊子に恋情を感ずるというのは、あるいは極めてありふれたことであるかも知れないが、しかし豹一は案外に勁い心をもっていたためか、たとえば中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また、高等学校時代|鎰《かぎ》屋のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかったのである。それをいま情けないことに、ひょんな工合に銀子に恋情を感じたのは、なんとしたわけであろうか。
 だが、はっきりと気がつけば、豹一自身いまいましいことにちがいないこの恋情に就ては、細かしく説明しない方が、賢明かも知れない。だから大急ぎで述べることにするが、つまり豹一がふと見た銀子の痛々しく細い足の記憶が、土門の電話口でいきなり生々しく甦って来たせいではなかろうか。そしていうならば、そんな豹一の心の底に、母親と安二郎を結びつけて考えたときのあのちくちくと胸の痛くなる気持が執拗に根をはっていたのである。
 豹一は重い心で、窓硝子に顔をすりつけて外をながめた。しとしとと雪が降っていた。視線がぼやけた拍子に、だしぬけに感傷的になって来た。
 土門は例のいらいらした手つきで、煙草の端をちぎっていたが、ふいに言った。
「おい! そんなしんみりした顔をするなよ」豹一の顔を嬉しそうに覗きこんだ。
「雪を見てるんです」言いながら、遠いハーモニカの音をきくような気がふっとした。夏の黄昏の時間が、雪を見ている豹一の心を流れた。
「あははは……。雪を見てるというか? なるほど、東銀子に惚れたな」
 やっぱり見抜かれたかと、豹一は赧くなった。しかし、土門はもともと敏感な男だったが、いまは他人の心など計るような面倒くさいことはしなかった。土門がそんなことを言ったのは、じつは次の言葉を出すためのまくら[#「まくら」に傍点]に過ぎなかった。
「惚れても駄目でっせ。いまのおれの電話をきいたか? 東銀子はもうあかん。一眼この眼で見ればわかるんだ。今日の東銀子の踊り方を見た途端に、おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかとね。へ、へ、へ」土門の笑いは豹一の心をますます重くした。
「珈琲もう一杯のみましょう!」
「ああ、飲もう。よくぞ言った。人生の無常がわかるとは、良いところがある。君はいくつだ?」
「二十歳です」豹一は噛みつくように言った。
「じゃ、僕と三十ちがいだ。僕は五十だ」
 豹一はぷっと吹き出した。眼鏡を外した土門はどう見ても三十二、三にしか見えなかった。しかし、豹一の笑はすぐ止った。その時、一人の男が禿げあがった頭に雪をかぶって、飛び込んで来たが、その顔を見るなり、(文芸部の北山という男だな)と直感したからである。豹一は咄嗟に緊張した。この男が銀子に手をつけたのか、ともう笑えなかった。白い眼でじっとにらみつけた。が、男はそんな豹一には目もくれず土門と向いあった豹一の傍に腰を掛けると「違うぞ。誤解だ、誤解だ!」と、言った。土門はそれには答えず、
「おれがここにいるとよくわかったな」
「どうせ近くだとにらんだわい」
「電話のおれの声の大きさでわかったというんだろう。そこで、もっと大きな声をききに来たってわけか」土門はそう言って、でかい声で笑った。
 豹一はそうして二人が笑っているありさまを不真面目なものに思い、じっと息をこらしていた。二人が笑うぶんだけ、豹一は怖い顔をしていたのである。土門はやがて笑い止むと、
「誤解とぬかしたな」と、言った。
「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことをいってくれるな」北山はいかにも悲しそうな声をだした。が、それはまるで座附作者が役者に科白をつけているとしかきこえなかった。
「本当か?」
「遺憾ながら本当だ」
「なるほど、遺憾ながらでっか。そんなら、誰だ?」
「わからん。わかろうとは思わん。わかると一層辛い。わかっているのは、銀子が失われたという、痛ましい事実だけなんだ」
「…………」
 土門はわけのわからぬ唸り声を出したが、いきなり、
「握手しよう」と北山の手を握った。
「どうせ、下手人はもみあげの長いヴァレンチノだろう。わしはいっそお宅に下手人になってもらいたかった」
 土門はわざとしんみりした声をだした。
「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」北山が言った。
「ざまあみろ」と、土門。
「ざまあみろ」と、北山。
「いい気持だ。焼酎禿のくせに踊子にうつつを抜かしやがって……。あはは……。恥しくねえのか?」
「うむ、いったな」
「どうだ、恥しくねえのか」
「うーむ」
「さあ、さあ、返答、返答!」
「さあ、それは……」
「返答、なんと? なんと?」
「恥しいのは、お互いさまだ。てめえの歳はいくつだと思ってやがるんだ」
「おお、よくきいてくれた。五十だ。隠しはせん」
「隠せるもんか?」
「なにをッ、こののんだくれ!」
「なにをッ、てめえには五円貸してあるぞ!」北山はそう言ったかと思うと、今までその存在を全く無視していた豹一の方を向いて、「君、こいつにいくら借りられた?」
 豹一は彼等のふざけた問答にすっかり腹を立てていたから、それに返辞しなかった。土門が代って答えた。
「三円だ」そう言って、土門は、「紹介しよう」と、豹一を北山に紹介した。「毛利君だ。ほやほやの新聞記者。――こちらはピエロ・ガールスの座附作者であらせられる北山老人」
 よろしくと豹一が頭を下げると、北山は瞬間別人のように改った表情をちょっと見せて、「これは、これは……。何ぶんともに……」と、古風な挨拶をした。
 やがて三人はその喫茶店を出て、歌舞伎座の方へ歩いて行った。いつもはあくどい感じに赤黒く輝いている千日前通も、今夜は雪のせいか、しっとりとした薄明りに沈んでいた。人通もふしぎなくらいまばらだった。豹一は土門や北山のあとに随いて行きながら、顔にかかる雪を冷たいと思った。

    第二章

      一

 東洋新報の編輯長はいつになく機嫌がわるかった。
 この人には子供が十人もあり、最近も五十六の年でありながら妻君に双生児を生ませたということである。二代目春団治に似てひらめのように下ぶくれしたこの人の顔はとぼけた大阪弁が似合っていた。めったに社員を叱ったことがなく、たとえばタイピストなどが仕事の上でひどい失敗をやっても、「もうこんなへま[#「へま」に傍点]やりなや。なんしょ、わてはあんたに肩入れしてるのやよって、叱りとうても叱られへんがな」と、冗談口を敲くぐらいのものだった。誰からも親しまれ、この人の怒った顔を見たこともない社員の方が多かった。この人の顔から機嫌のわるい表情を想像するのは余程困難なのである。
 今日もはじめのうちは、編輯長が機嫌がわるいなどとは誰も気がつかなかった。口をとがらして、しきりにぶつぶつ言いながら編輯長室のなかを歩きまわっているのが、硝子扉ごしに見られたが、まさかそれが怒りを爆発させないために、必死の努力をはらっているのだなどとは、気づかなかった。周章て者は、編輯長が口笛の練習をしているのだと思ったぐらいである。
 編輯次長と社会部長が編輯長室へ呼ばれ、そして出て来た顔を見て、はじめて人々は、おや変だぞと気がついた。両人とも真蒼な顔をしていたのである。
「なんぞおましたか?」口の軽い連中がそう訊いたが、しかし、二人とも答えなかった。まさか、いま編輯長から「良え年してなにぼやぼやしてるねん。そんなこっちゃったら、もう新聞記者をやめなはれ」と言われて来たのだとは、長と名がついた手前でも言えなかったのだ。両人は、いまいましそうに、「土門の奴め!」と、唇を噛んでいた。
 じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃がしていたのである。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという、いまならさしずめ黙殺されるか、扱うにしても遠慮して小さく扱われそうな記事なのだが、当時はこんな記事が特種として、あらゆる新聞の三面に賑かに取扱われていたのだった。妙な言葉だが、キャバレエはなやかなりし頃であった。それに、村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になったという、いわば新聞の見出し通り、「問題の美貌女優」だった。「オリンピア」の支配人がそのネーム・ヴァリューに眼をつけるだけのことはあったのだ。ラウンド・サーヴィスするだけの報酬が、一晩何百円だと新聞に報ずるところも、満更誇張とは思えなかった。それほど有名だったのである。それを東洋新報だけが黙殺したとはなんとしたことであろうか。東洋新報はかねがねこの種の記事で売っており、おまけに「オリンピア」は大事な広告主である。よろしくたのみますと、わざわざ営業部からの依頼もあったのだ。
 編輯長が機嫌をわるくするのも、無理はなかったのだ。しかし、東洋新報ではなにもその特種をわざと黙殺したわけではなかったのだ。社会部長はちゃんと腕利きの記者を「オリンピア」へ派遣したのである。社会部長に手落ちはない筈だ。その旨編輯長に言うと、
「いったい、誰に行かせたんや」
「土門です」
「土門君をここへ呼びなはれ」
 しかし、土門はまだ出社していなかった。実は土門は昨夜写真班と一緒に「オリンピア」へ出掛けたことは出掛けたのだが、「オリンピア」の支配人が新聞記者のサーヴィスに飲み次第の饗応をしたので、よせばよいのにピエロ・ガールスの北山を電話で呼び寄せ、二人で飲みはじめると止らず、かんじんのインターヴィユはそっちのけで、到頭泥酔してしまい、今日は二日酔で休んでいたのである。土門がいないので、編輯長は自然次長と社会部長の両人に当り散らすより外に仕方がなかった。それでなくとも編輯長は土門を叱りたくはなかった。叱っても張りあいのない男だというより、やはり子飼の記者でありながら結局部長にしてやれなかった土門を叱りつけるのは、いわば情に於てしのびなかったのだ。それに、こんな大きな問題は、やはり責任を次長や部長に転嫁して置く方が適わしいのではないか。両人とも良い迷惑だった。ことに編輯長のとぼけた大阪弁も、「新聞記者をやめなはれ」というような言葉になると、冗談にいわれたのであったが、意外な効果を発揮した。彼等は土門の来るのを手ぐすね引いて待っていた。土門は良いとき休んだものである。
 編輯長は一通り怒りを通過させてしまうと、善後策を思案した。営業部からの抗議があってみれば、とにかく「オリンピア」のためにその記事をのせる必要がある。といって今からでは手遅れだ。結局、他の新聞と全然変った扱い方をするのだ。どの新聞でも、「オリンピア」に於ける彼女をインタヴィユしていたが、もはやそれでは二番煎じだから、「オリンピア」がカンバンになってからの彼女の尾行記をものするのだ。誰をその任にあたらしたものかと、編輯長は硝子扉ごしに編輯室のなかを物色した。
 ある者は机の上で夕刊用の原稿を書いている。ある者は電話を掛けている。ある者は新聞のとじこみを見ている。用事のない者は、ストーヴのまわりに集って、がやがやと雑談している。それらの顔をひとつひとつ見て行ったが、どれもこれも適任者と思えるものがなかった。ふと、隅の方に一人仲間はずれて固い姿勢で突っ立っている豹一の姿が目に止った。まるで、何ものかに向って身構えているような、いらいらした姿勢だったので、いやでも編集長の目を惹いた。その美貌にも注意を惹くものがあった。
(あの男誰やったかな?)
 忘れっぽい癖の編輯長は咄嗟には思い出せなかった。
 入社してから半月経っていたのだが、全くの見習記者に過ぎぬ豹一は、仕事らしい仕事も与えられず、ただ意味もなく毎日出社しているだけのことだった。だから編輯長はうっかりと豹一の存在を忘れていたのだった。ところが、いまよく見ると、豹一の印象は群を抜いて異常なものがあった。
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