、「おかげをもちまして質受け出来ました」と真夏にわざと冬服である。そして、そういった尻から同僚に金を借りている。
「月給があがったんだろう! 貸し給え」
以前はそういうことはなかった。むだな冗談口ひとつ敲くようなことはなかったのだ。無口だが、しかしたとえば編輯会議などでは、糞真面目な議論をやったものである。観念的だとか弁証法的だとか、妥協を知らぬ過激な議論をやっていたものである。なんでも学生時代からある社会運動に加っていたとかいうことで、そういえばたしかにそんな理窟っぽい口吻があった。
ところが、急に変りだしたのである。実にふざけた男になってしまったのだ。ある日、退社時刻の六時が来ると、いきなり眼覚し時計が鳴り出した。驚き、かつ笑いながら社員たちが音のする方を見ると、土門は悠々と自分の机の上にある眼覚し時計の音を停め、さっさと帰ってしまった。――その日から、土門は変ったと見られた。
まず第一に、土門は社に不平があるのだろうと噂された。退社時刻に眼覚し時計を鳴らすのは、何かのあてこすりだろうということになったのだ。丁度、土門の後輩が部長に昇進して、創立以来の古参の土門には気の毒なことだともっぱら同情されていた矢先だったから、この観察も無理はなかった。その頃土門はしきりに、「俺は五十歳だ。もはや老朽だ」といいふらしていた。五十歳だとすると、つまり土門は二十年間東洋新報に勤めている勘定になるのだが、じつは東洋新報は創立以来まだ十年にしかならぬ。してみると、土門は五十歳だといいふらすことで、わざと自分の古参を自嘲しているというわけになる。いわばやぶれかぶれの五十歳なのだと、穿った観察をする者もいた。もっとひどいのになると、土門がかつていつの編輯会議にも、所謂進歩的な意見を吐いていたのは、部長になりたいばっかりの自己主張であったというのだ。しかし、それは少し酷だ。部長になり損ねたために人間が変ってしまったとは、余りに浅薄な見方ではなかろうか。が、それならば土門の変った原因はなんであるか――他人にはむろん土門自身にもはっきりわからなかった。
とにかく土門は変ったのである。入社当時の所謂過激な議論はとっくに収っていたものの、たとえば「人間の幸福は社会の進歩にある」とか、「文化が進むことによってわれわれは幸福になれるのだ」ぐらいのことはいっていた。ところが、それすらも言わなくなったどころか、「猿に毛が三本増えたって猿が幸福になれるもんか。そのでん[#「でん」に傍点]で文化が進歩したって、人間が幸福になれると思うのは、大間違いだ」かつての自分の意見を否定し、おまけにその口調がふざけたものになってしまった、「文化人になりたいか? よし、五十銭出せ! 文化人にしてやる!」若い記者がしきりに映画論をやっているのを見ると、必ずそんな意味のいやがらせを言った。
土門は社会面の特種以外に映画批評も担当していたが、「キングコング」のような荒唐無稽な映画だけを褒めた。なお、飛行機や機関銃の出て来ない映画は、土門の批評によればつまらないというのだった。日本の映画では大都映画をしきりに褒めていた。レヴューが好きで、弥生座のピエロ・ガールスのファンだった。今日土門が豹一と弥生座の前で会うことにしたのも、じつはピエロ・ガールスを見るためであった。
七時過ぎになってやっと土門はひょろ長い姿を見せた。
「さあ、はいろう、はいろう」待たして済まなかったとも言わず、さっさと弥生座のなかへはいって行った。豹一は切符をどうするのかとちょっと迷ったが、そのまま土門のあとに随いてはいった。「お切符は……?」豹一は入口でそうきかれた。赧くなった。
「金を取る気か! 取るなら、取れ! 但し、子供は半額だろう?」土門は済ました顔で、入口の女の子にそう言った。
「ああ、お連れさんですか?」女の子は豹一が土門の連れだとわかると、「お二階さん御案内!」と、わざと大きな声で言った。
「いや。階下で結構です。階下の方がなんとなくよく見えますからね」
土門はそう言って、黒い幕のなかへはいった。舞台では「浪人長屋」という時代物の喜劇がはじまっていた。
土門は豹一と並んで席に就くと「一《ぴん》ちゃん!」と呶鳴った。すると、おそろしく長い顔をした浪人者が、舞台の上からきょろきょろ客席の方を見廻した。そして、土門の顔を見つけると、いきなり頭に手をあてて、あっという間に鬘を取ってしまった。観衆はどっと笑った。浪人者は済ました顔で鬘を被り、芝居を続けた。
「あれは中井|一《ぴん》というんだ。顔が長いだろう? だから、長井|一《ぴん》とよぶ奴もある。僕の親友です」土門は豹一にそう説明した。そして、また呶鳴った。「森|凡《ぼん》!」
ひどくしょんぼりした顔の小柄な浪人者が、横眼で土門の方を見て、ウインクした。豹一が土門の横顔を見ると、土門は生真面目な顔をしていた。
「親友です」
バンドがタンゴの曲を伴奏すると、中井一と森凡はのろのろと立ち廻りをはじめた。急に笑い声がおこったので、なにがおかしいのかと、気をつけてみると、彼等浪人者は立ち廻りしながらタンゴのステップを踏んでいた。「もはや、これまで! さらばじゃ!」中井一はすたこらと逃げ去ってしまった。倒れていた森凡はのっそり立ち上ると、「後を慕いて!」言いながら、着物の裾をからげた。赤い腰巻が見えた。「これは失礼」森凡は裾を下した。途端に幕が降りた。
豹一はわれを忘れてげらげらと笑った。腹が痛くなるほどだった。ふと土門の顔を横眼で見ると、土門は案外つまらなそうな顔をしていた。豹一はすかされたような気になった。(面白くないのだろうか?)しかし、根っからの大阪人である土門に、以前なら知らず、この喜劇の底抜けの面白さがわからぬという筈はなかった。が、じつは土門はこの幕をもうかれこれ十日間も打っ続けに見ているのである。否応なしに見せられているのである。土門の目的は次の幕のレヴューにあった。
やがてレヴュー「銀座の柳」の幕があいた。土門はわざと腕組みなどしていたがなにかそわそわと落ちつかなかった。
「後列右から二番目の娘に惚れるなよ」土門は豹一に囁いた。
豹一は何気なく後列の右から二番目の踊子を見た。途端にどきんとした。足に見覚えがある。
先刻弥生座の前で土門を待っていた時、鮮かな印象を風のなかに残してさっと通り過ぎた少女にちがいはない。顔はしかと見覚えなかったが、痛々しいほど細いその足が心に残っていた。その時三人いたのだが、その少女だけ靴下を穿かず、むき出した足が寒そうに赤かった。
「なんという子ですか?」豹一は思わず訊いた。土門は答えた。
「東銀子」
ずんぐりと太い足にまじっているために、なよなよしたその細い足は一層目立っていた。病身の少年のように薄い胸だった。削りとったような輪郭の顔に、頬紅が不自然な円みをつけていた。耳の肉が透いて見えそうだった。睫毛の長い眼が印象的だった。
にこりともせずに、固い表情で踊っていた。つんとした感じを僅かに救っているのは、おちょぼ口をした可愛い唇であった。済まし込んで踊っているのだと、見れば見られたが、豹一はふっと泣きたそうな表情を銀子の顔に見たように思った。きびしい甘さに心を揺すぶられる想いで、豹一は銀子の顔から眼を離すのが容易でなかった。
ふと傍の土門をうかがうと、土門はなにか狼狽したありさまを見せていた。「おかしい。どうもおかしい!」唸るように土門は言った。顎のあたりが蒼くなっていた。土門はそわそわと東銀子の顔を見ていたが、やがて、なに思ったか、
「帰ろう」と、言い、いきなり席を立って、出口の方へさっさと歩いて行った。豹一は後を追った。
土門は出口のところで、立ち止った。そして振りかえって、舞台をちらと見た。土門の口から溜息のような声が出た。「あかん!」そして豹一の手を引っ張って、弥生座を出た。
六
弥生座を出ると、雪だった。しとしとと落ちて来る牡丹雪を、眩い光が冷たく照らしていた。夜の底が重く落ちて白い風が走っていた。
「寒い、寒い!」土門は動物的な声をだして、小屋の向いにある喫茶店へ飛び込んだ。豹一も随いてはいった。
ストーブで重く湿った空気がいきなり体を取りかこんだ。土門は曇った眼鏡を外した。すると、はれあがった瞼が土門の顔をふしぎに若く見せた。
土門は珈琲を一口啜ると、立ち上ってカウンターの方へ行き、電話を借りた。
「もし、もし、弥生座……?」
どこへ掛けるのかと思っていたら、つい鼻の先の今出て来たばかりの弥生座へ掛けているのだった。いかにも土門らしいと、豹一は思った。
「文芸部の北山君を呼んでくれ。……土門だよ。ツ、チ、カ、ド……東洋新報の……。あ、そう」
喫茶店の隣は銭湯だった。湯道具を前垂に包み、蛇の眼の傘をさした女が暖簾をくぐって出て来た。豹一は窓硝子の曇りを手で拭って、その女の後姿がぼうっと霞んで遠ざかって行くのを、見ていた。
再び土門の大きな声が聴えて来た。相手が電話口へ出たらしかった。
「――挨拶は抜きだ。雪どころの騒ぎか! おいけしからんぞ! 貴様なぜおれに黙ってあの娘に手をつけた? ――誰のことだとはなんだ? いわずと知れた……そうだよ、東銀子だ! 二度も言わすな。――その通り、東銀子だ! ――なに? もう一ぺんいってみろ! よくわかったねとは何ごとだ! 余人は知らず、あの娘に関してはだね、そんじょそこらの桂庵より見る眼はもってるんです。一眼見りゃわかるんだ。温泉場の三助じゃねえが……わかるんです。――ああ、お説の通り、わいはぞっこん参ってまんねん。何がわるい? 貴様も五十なら、おれも五十歳だ。年に不足はあるまい。ただ、おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。――なに? 下手人はほかにある? 白っぱくれるな! おい! ピエロ・ガールスに悪漢はちゃちな海賊船ほどいるがね、あのいたいけな、なよなよした、可憐な東銀子のような娘を食うのは、ピエロ・ガールスひろしといえど、貴様のような助平爺ひとりだ! 白っぱくれてもらわんときまいよ。おい! 泣きながら踊ってたぞ! 冷血漢め! 電話掛けたのは、貴様の老いぼれた顔を見たくないからだ。ありがたく思え! 顔を見れば、噛み殺してやる! いいか、覚悟しろ! ――なに? 会いたい? よし会ってやる。――おれが今どこに居るかぐらい探せばわかる。半時間以内におれの居所を探しだせ! それまでに貴様の汚ない顔を見せなけりゃ、弥生座を焼いてやる! ――左様、おれは坂崎出羽守だ! 千姫はおれが救い出す。貴様なんか指一本触れさすものか! けっ、けっ、けっ!」
あたりに構わぬ大きな声で呶鳴っていたが、妙な笑い声を最後にやっと受話機を掛けると、土門は、「長い電話を掛けさせやがった」と言いながら、豹一の席へ戻って来た。店の女の子たちは、くすくす笑っていた。土門は、なにがおかしいと、にらみつけて置いて、珈琲を一息にぐっと飲みほし、「元気を出せ!」と、誰にともなく言った。豹一はそれを自分のことのようにきいて、はっとした。土門の電話口での話に、すっかり気が滅入っていたからである。
しかし、なぜ気が滅入ったのであろうか。豹一は土門のようにとりとめないことを言う男の言葉は注意してきくまいと思っていたから、最初のうちはなにげなくきいていたのだが、土門の口から東銀子という名前が飛び出した途端に、どきんとした。そして、どうやら、東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議しているらしいとわかると、にわかに心が曇ったのである。どうせ、土門の言うことだから、出鱈目にちがいないだろうと、あわてて打ち消してみたが、しかし、先刻土門がそわそわと小屋を出てしまったのは、舞台の銀子を見てなにか察したのであろうと思えば思われたし、それに、ふざけた調子ではあったが、土門の電話での抗議ぶりには、いくらか本当めいたものがあるとも思われた。また、たとえそれが全く根もない事実に過ぎないと、無理に自分に言いきかせることが出来た
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