。豹一ははっと赧くなったが、実は豹一に言ったのではなかった。
「おい、美根ちゃん、そんなにおれの顔を見ないでくれ!」
「まあ、失礼!」
「監視せんでも良えぞ。勘定はこの人が払ってくれる。食逃げはせんからね。いつものようには……」
そして、豹一に、「君、勘定を払ってもらった上にはなはだ恐縮だが……」しかし、ちっとも恐縮しているような態度は見せず、にやにやと顎をなでていたが、いきなり、「金を貸してくれ」と、言った。
ずり落ちそうな眼鏡のうしろで、細い眼をしょぼつかせている外観から想像も出来ない、まるで斬り捨てるような言い方だったから、豹一はあっと駭いたが、しかし、さすがに直ぐに言葉をかえして、「いくら?」と、訊いた。
「五十銭で良えです」しかし豹一が財布をあけるのを見て、「一円にして貰おうかな」
結局三円とってしまうと、男は、
「金を借りたからというわけではないが、とにかく自己紹介して置こう。僕は社会部の土門です。土に門と書く。ツチカドとよむのが正しいが普通ドモンとよばれている。ども[#「ども」に傍点]ならんというわけやね」下手に洒落のめした。豹一は土門の言葉の隙間へ、
「僕毛利です。どうかよろしく」と、小さく挨拶を割り込ませた。
「あ、毛利君ですね? 払いますよ毛利君この金は……。但し一年以内に……。時々催促して下さい」にこりともせず土門は言った。豹一は莫迦にされているような気がしてむっとしたが、しかし相手はそんな表情を、可愛い若武者だとながめながら「僕は君が気に入ったよ君の貸しっ振りはなかなか良いところがあるよ」一層豹一を怒らせてしまった。「いや、実際の話が、何が気持良いといっても、金を借りる時相手に気前よく出されるほど気持の良いものはないね。たとえ五十銭の金にしたところがだね、気持よく、ああ、あるよと出された五十銭ってものは、あんた、なんですよ、九十八円ぐらい遊んだほどの値打があるからね」
「金の話はよしましょう」豹一はだしぬけに言った。高利貸をしている安二郎のことが頭に泛んだせいもあった。
「あ、そう」土門はあっさりとしたもので、「じゃ、仕事の話をしようではないか。君は社会部だね。じゃ、僕と同じだ。どうせ、僕が当分君の仕事を見てあげることになるんだろうが、――なんといっても僕は社会部では古参だからね。部長よりも古い。というのは、つまり僕は部長になる資格がなかったという意味になるが、実はその意志がなかったんだ。序でに言っとくと、僕は副部長待遇です。君、いいだろう? 『待遇』ってのは……。嬉しいじゃないか。え、へ、へ。そこでだね。君に教える第一のことは、先ず名刺をつくることだ。名刺を持たない新聞記者ってものは余っ程怠け者か、――この僕の如き――それとも余っ程腕利きのどちらかで、まあ、とにかく聞《ぶん》屋には名刺が要るもんだね。といったって、べつに聞屋が威張って良いというわけじゃないよ。聞屋の威張れるのは火事場だけだ。そう思って置けば、間違いないね」
「僕もそう思います」豹一は我が意を得たという顔で言った。
「そら良え現象や。ところが、威張る新聞記者は佃煮にするほどいますわい。なるほど、威張ろうと思えば、威張れるがね。しかし威張って良い理由はどこにも無いんだ。たとえば、よく使われる例だが、失業した新聞記者は水をはなれた魚のようにみじめなんだ。してみるとだね、てめえらが威張れたのは、てめえら自身の、――変ないい方だが、――人格ではなくて、実は背景になっている新聞のおかげだ。つまり、虎の威を借りている、といっては月並かな。君あれだよ、つまるところ新聞記者という特権を濫用しているんだよ」
特権という言葉が出たので、豹一は土門の考えにすっかり共鳴してしまった。もっとも土門はその言葉をいうとき、ニキビをつぶしていた。いや、つぶす真似をしていた。
「咽喉が乾いた。珈琲もう一杯のもう」土門は新しい珈琲が来るとまた喋り続けた。「しかしまあ、とにかく名刺を作ることだね。君のような可愛い顔をした男が、半鐘が鳴って火事場に駆けつけても、名刺が無ければ通してくれないからね。八百屋お七が変装して吉三に会いに来たと思われるぜ。――失敬、失敬、そう怖い顔をするなよ。いや実際君の顔は可愛いよ。おれに変態趣味があれば、君に申込むね。全く、君はにくらしいほど美少年だ。僕は僕の少年時代を想い出すね。君とそっくりだった」
豹一は危く噴きだすところだった。なにも豹一は自分を美少年と想っているわけではなかったが、しかし、不細工だと形容するほかの無い土門のそんな言葉には、さすがにあきれてしまった。土門はなおも洒蛙々々と続けた。
「君、用心すると良いよ。君のような美少年は危い。相手が女だとあれば、君も大いにやに下っても良いが、しかし、男に目をつけられるのは、目もあてられないからね、不気味ではあるな。いまはこの風潮は大いにすたったが、しかし昔は盛んだったね。いや、全くの話が、プラトンかソクラテスかどっちかが言っているように、男の肉体というものは女の肉体より綺麗だからね。彫刻を見ればわかるじゃないか。だから美意識の異常に発達した、たとえばうちの編輯長の如きが大いにこの趣味を解するのも無理はないね。君、編輯長に気をつけ給え。いや、これは臆測に過ぎんがね。しかし、どうもあの編輯長は臭いね。というのは、全然女に興味がないらしいんだ。それがあやしい。社の創立当時のことだがね、丁度夏だったもんで、奴さん褌一つで駆けずりまわる――のはおかしいか。駆けずりまわるときはさすがに洋服は着込んでいたらしいが、さて社で記事を書くときは褌一つだったんだ。まあ、それほど大車輪で目覚しかったんです。ところが、当時社長の女秘書がいたんだ。これがまた頗る美人で、おまけに名門の出だもんで、例の遊ばせ言葉と来てるんだ。じつは、結婚してたんだが、亭主が小間使に手を出したてんで、飛び出して尖端を切った職業婦人になったという代物なんだがね。この秘書女史が編輯長と同じ部屋にいたんだが、ある日、この女史が社長にいきなり辞意を表明したと、思い給え。その理由がなんだと思う……? うふふ」土門は嬉しそうに笑った。「――その理由ってのは、君、あれだよ。うふふふ……。編輯長さんの越中をなんとかしてもらえんか――って、そんな言い方はしなかっただろうが、ともかくまあそんな意味のことをやわりやわり社長に言ったんだね。社長もさすがに弱って、結局編輯長を呼びつけて曰くだ、――君、褌は困るね。せめて汚れない奴を着用してくれんか。――あははは」土門はまるで転げまわっていた。「――というわけで、問題はけりがついたが、ともかく美人の秘書の前で汚れた褌一つで平気でいるところを見ると、奴さん女には全然興味がないと見てまあ差支えないだろう? 少しでも興味があればだね、少くともステテコ位は穿いたろう。まあ、そう言ったわけで、女に興味が無いとすれば、残るのは美少年だ。どうだ、君、僕の推理は……? わりに筋が通ってるだろう? だからさ、まあ君は大いに編輯長に気をつけることだね。え、頼みまっせ。けっ、けっ、けっ」土門は口の泡を噛みながら笑った。
いったい言葉の乱れている、――たとえば標準語と大阪弁がちゃんぽんになっているような男には、健全な精神が欠けていると見てたぶん間違いはないが、この土門のような男はその代表的なものである。ことに土門は言葉が乱れているばかりでなく、その言い方が真面目に見えたり不真面目に見えたり、つまり、底抜けにふざけていて、いってみればデカダンスのにおいが濃いというわけだった。
こういう男は得てして生真面目な男を怒らせるものなのだが、豹一は自分で思っているほどには人から生真面目に思われない男だったから、莫迦にされてるような気はしたものの、すっかり腹を立てるまでには到らなかった。それに突拍子もないところへ大阪弁が飛び出したりして、土門の態度に案外気取りのないところが、いくらか気に入っていたのである。
もうひとつには豹一は土門の話よりも、土門の煙草を吸う動作にすっかり気を取られていたので、腹を立てる余裕などは無かったのだ。土門の煙草の吸い方はあきれるほど早かった。三分ノ一ほどせわしく吸うと、もう新しい煙草に火をつけている。それが休む暇もないのである。マッチをつけるのがもどかしいらしく、煙草から煙草へ火を吸い移すのだ。瞬く間に一箱を平げてしまうその早さに、一日掛って一箱がやっとの豹一はあきれてしまった。が、豹一が注意をそそられたのは、そのことだけではない。よく見ると、土門は必ず煙草の端をやたらに濡らすのである。そして、濡れたところをしきりに手でもみほごす。しまいにはそこをひき千切ってしまって、そして、ペッペッと煙草の葉を吐き出す。すると、もうそれを吸うのがいやになったらしく、やに色に焦げた指先で新しい煙草を取り出して火を吸い移している。話しっ振りの飄々たるに似合わぬ、なにか苛々とした焦燥がその吸い方に現われていたのである。なお注意して見ると、土門は話しながら、しきりに煙草の箱を千切っているのだ。瞬く間にテーブルの上が紙屑で一杯になってしまうのだった。千切るのは煙草の箱だけではない。マッチ、メニュー、――手当り次第だった。
話しっ振りも動作もどちらも行儀がわるいと言ってしまえば、いちばん分り易かったが、しかし、豹一はなぜかその土門の苛々した態度になんとなく奇異なものを感じたのだった。
土門はなおも喋り続けた。しかし、どうやら勤務時間をサボっての閑あかしらしい土門の気焔をここに写すのは、これぐらいに止めて置こう。どうせ土門と豹一はその夜また会うことになっているのだ。
「どや、今晩つきあわんかね?」土門にすすめられて、豹一は断り切れなかったのである。
「債権者の方から逃げる手はないぞ!」一応断ると、土門はそう言った。豹一は土門のような男には尻込みしたさまを見せたくないと思った。たとえ地獄へ一緒に行こうというのであっても……。また、土門が天国へ行こうという筈もないわけだ。それだからこそ、一層尻込みしたくなかったのである。
五
その日、夕方の六時に豹一は弥生座の前で土門と落ち合うことになっていた。
豹一は約束の時間より少し早目に弥生座の前に立っていた。冬の日は大急ぎで暮れて行った。六時を過ぎても土門は姿を見せなかった。しょんぼり佇んで千日前の雑閙に注意深く眼を配っていると、なにか新社員のみじめさといったものが寒々と来た。道頓堀の赤玉のムーラン・ルージュが漸くまわり出して、あたりの空を赤く染めた。待たされている所在なさに、ぼんやり赤い空を仰いでいると、いきなり若い女の体臭が鼻をかすめた。レヴュガールが三人、ぽかんと突っ立っている豹一の前を通り過ぎたのだった。弥生座へはいって行くその後姿を見て、豹一はふとそのなかの一人が靴下も穿かぬ足を寒そうに赤くしているのに、心を惹かれた。
土門はなかなか現れなかった。豹一にとっては気の毒な話だが、土門は約束の時間を守らないことで定評があった。遅れて来ることもあれば、むやみに早く来ることもある。早く来た時は、相手の来ぬ間にしびれを切らして帰ってしまうので、結局来ないのと同じ結果になるのだった。今日は遅れて来るつもり――いや、土門に「つもり」などがあろうか、ともあれ遅れて来るらしい。当分豹一は待たねばならない。
土門が来るまでに、大急ぎで土門に就いて述べて置こう。
土門は自分では五十歳だといいふらしているが、本当は三十六歳である。しかし、如何にも三十六歳らしい顔をしている土門の印象を捉えることは容易ではない。つまり非常に老けて見えたり若く見えたりするのだ。土門は自分自身の印象を変えるために、随分苦心していると、思われる節がある。たとえば豹一が見たのは頭髪をむやみに伸ばして眼鏡を掛けたところだったが、一月経てば、丸坊主になり、眼鏡を外してしまっていないとは保証出来ないのである。夏にスキー帽を被って、劇場へ現われたりする。毎年一回昇給するその翌日は、必ず洋服を着変えて出社し
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