年が生活に困って紙屑屋を開業したと、新聞に写真入りの、いわば失業時代だった。たとえば、ある日、
「社会部見習記者一名募集」、「応募者ハ本日午前九時履歴書ヲ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」
 そんな三行広告が新聞に出ている朝、豹一が定刻より一時間早く北浜三丁目の東洋新報の赤い煉瓦づくりのビルへ行ってみると、もうまるで何ごとか異変の起ったような人の群が一町も列を成して続いていた。一名採用するというのに、この失業者の群はなんということかと、豹一はそんな世相をひとごとならず深刻に考えるまえに、そうした列に加わることに気恥しく屈辱めくものを感じた。よっぽど帰ろうかと思ったが、しかし、ここを逃しては、当分就職口はあるまい。どさくさまぎれの気持で、しょんぼり列のうしろに並んだ。
 無意味に待たされて、その列は一時間ほどじっと動かなかった。寒さと不安に堪えかねて、ひとびとはしきりに足踏みしていた。九時過ぎにやっと動きだしたが、摺足で歩くほど、のろい進み方だった。前の方から伝って来た「情報」によると、先ず一人一人履歴書を調べられているらしく、それを通過したものだけが直ぐあとで筆記試験を受けることになっているらしかった。中学校卒業程度以下の学歴の者は文句なしにはねられるらしいと、いいふらす者もあった。(すると中学校も案外出て置くべきだな)あまり感心の出来ない調子で、豹一は呟いた。
 筆記試験へ残った者は百人ばかりあった。豹一もその一人だった。三階の講堂へ詰めこまれると、豹一はわざと出口に近いいちばん後列の席に坐った。嫌気がさした時、試験の最中にすぐ飛び出せるための用意で、なかなか手廻しが良かった。席に就いてから半時間待たされた。豹一は苛苛として来た。
(どうせ、今登って来た階段の数は何段あったかなんていう問題を出されるに決っているのだ)試験の結果に就いては前以て全く諦めていた豹一は、腹立ちまぎれに、そんなことを考え、そのため一層苛立っていた。(「歩数だけ」と答を書いてやろうかな。但し二段一度に登ったところもあり、正確を期待しがたい――か。ケッ、ケッ、ケッ!)それでちょっと慰まった。
 やがて、背の高い痩せた男が長い頭髪をかきむしりながらはいって来て、壇上に立った。
「えらいお待たせしまして、申訳ありません。えー、実は今日の筆記試験の係の男が、急に姿を消してしまいまして、えー、お茶でも飲みに行ったのやろかと思いまして心当りあちこち探しにやっているのでありますが、どこへ逐電しましたのか皆目見当がつかない状態でありますので、とりあえず私が代役することになりました」笑い声が起ったが、しかし直ぐ止んだ。「――えー、そういう訳で、大変お待たせしまして、恐縮です」
 その時給仕があわててはいって来て、壇上の男に何か耳打ちした。
「えー、いまその男から電話が掛って来たそうであります。実は食事に行っているそうでありましてそれがまたとても暇の掛る店と見えまして、当分帰れそうにないから、誰か代ってやってくれということであります。とにかく私が代役するぶんには変りありません」
 豹一はこのふざけた「演説」に腹を立てるべきかどうかちょっと考えた。しかしずり落ちそうな眼鏡のうしろで眼をしょぼつかせているその男の印象はそんなに悪くなかったから、豹一はわざわざ席を立つこともしなかった。
「いま給仕が問題用紙を配ります。余白に答案を書いて下さい。時間の制限はありません。しかし、夕方まで掛ったりされますと、私が大いに迷惑します。――答案が出来ましたら、ここへ持って来て下さい。そして帰って下すってよろしいです。結果は追って――」いい掛けて、大声で、「おい、そうだな?」と給仕に問うた。給仕はうなずいた。「――結果は追って通知することになっています。えー、それから煙草は御自由に」
 豹一は三本目の煙草を吸っていた。
 問題用紙が配られた
[#ここから3字下げ]
一、作文「新聞の使命に就て」
二、左の語を解説せよ
 Lumpen
 室内楽
 A la mode
 Platon
[#ここで字下げ終わり]
 そんな問題だった。横文字を読むために問題用紙を横に動かす音が、サラサラと鳴った。豹一の傍の席でしきりに鉛筆を削っていた男が、暫く問題を見つめていたが、いきなり立上って、
「こら帰った方が得や。一人しか採れへんのに出来もせん試験を受けても仕様があらへん」豹一にきこえるように言って、こそこそと出て行った。すると、これを見ならうように、つづいて三人出て行った。
 豹一は居残って答案を書くことに、ちょっと拘泥った。なんだか出て行った人に済まないとも思われた。が、いま出て行っては、あいつは答案が書けないのだと軽蔑されるおそれがあると思い、辛うじて席に止った。答案を書いていると、ふっと鎰《かぎ》屋のお駒や紀代子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持で頭に泛んだ。それほど講堂のなかの空気が息苦しく思われたのだ。一刻もじっとしていられない気持で、豹一はまるで逃馬のように卒然となぐり書きして、あっという間に答案を提出してしまった。むろん、読み返しもしなかった。たとえ二人のうち一人採用されるにしても、自分は不採用に決っていると、新聞記者になることにすっかり見切りをつけてしまった。ところが、そんな風に早く提出してしまったことが、豹一に幸したのだった。
 実は全部提出するまで根気よく待っていた壇上の試験係には随分気の毒な話だが、編輯長の方針では、採点する答案は最初に提出した十人だけと、あらかじめ決っているのである。そのあとから提出した答案は一束に没籠にほうり込まれてしまったのだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛って書くようなのは、新聞記者としては失格だという編輯長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章が早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だというわけだった。
 ところで、その十人の答案は大半出来がわるかった。編輯長は答案を調べながら屡※[#二の字点、1−2−22]吹きだした。編輯次長はわざわざ編輯長の部屋へ呼ばれた。
「傑作があるぜ、これどないや。Lumpen(ルンペン)を合金ペンと訳しとるねんや」
「だいぶ考えよったですな」
「まだある。やっぱり同じ男や。Platon(プラトン)はインクの名前やいうとるねや」
「文房具で流したところは、なかなか凝ってますな。まだありませんか。傑作は――」
「室内楽を麻雀やぬかしとる」
「こら良え。なるほど麻雀やったら、部屋のなかで鳴りますな」
「部屋の中の楽しみやと考えよったのやろ」
「A la mode(アラモード)に傑作がありまっしゃろ」
「あるぜ。献立表というのがある。あ、そう、そう、これはどないや。モーデの祈りとはどないや」
「新聞記者にするのは惜しいですな」
「吉本興業に頼んでやると良えな」
 結局、豹一の答案がいちばん出来が良かった。たとえば、ルンペンを「独逸語で屑、襤褸の意、転じて社会の最下層にうごめく放浪者を意味する。日本では失業者の意に用う。しかしルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集った失業者はルンペンではない」と、編輯長自身にも書けない立派な答案だった。しかも皮肉ったエスプリが出ている。それに、提出の順序も一番だった。早速、豹一のところへ面会の通知が速達された。

      四

 豹一は他人に与える自分の印象に就いては全然自信がなかったので、面会の通知が来たときもすっかり喜び切ることは出来なかった。面会の時の印象がわるくて不採用になるかも知れないと、かなり絶望的に考えたのである。己れを知るものといえるわけだ。
 実際豹一が学校にいた頃、教授達の豹一に対する批評は「態度不遜だ」ということに一致していた。しかしここで豹一のために弁解するならば彼自身教授に対して個人的に不遜な態度をとった覚えはないつもりだった。ただ、教室を軽蔑していた。そしてまた些かの未練も残さずに中途で退学してしまった。つまるところは、「光輝あるわが校の伝統を軽蔑している」ことになったのである。しかし、それにしてもある教授のように、「毛利豹一はおれを莫迦にしている」とむきになるのはいうならば余りに豹一的で、つまり些か大人気ないことではなかろうか。豹一はただ慇懃な態度が欠けていたのだ。他人に媚びることをいさぎよしとしない精神が、彼を人一倍、不遜に見せただけのことである。
 ところが、銀行や商事会社なら知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされないのである。少くとも外勤の社会部の記者には必要ではない。もっとも、社内にあって良い地位を虎視眈眈とねらっている連中ならば、たとえば編輯長の前ではあくまで慇懃であってもらいたいものだが、しかし先ず新参の見習記者には用のない話だ。面会に来て、どんな頭の下げ方をするだろうかなど、編輯長の頭には全然なかった。
「えらい威勢の良い奴ちゃな」――でも構わなかったのである。それどころか、新聞記者には威勢の良いのは、うってつけである。苛々と敏感に動く豹一の眼を見て、編輯長は、(こいつは鋭いところがあるぞ)と、すっかり気に入った。(ちょっとぐらい社のタイピストと問題を起しよっても、構へんやろ。この男前はなかなか使い道があるぞ)と、編輯長は思った。
「どんな方面の仕事が担当したいねん、言うてみ。カフェー廻りはどないや。それともダンスホールか」カフェーやダンスホールの評判記でかなりの読者を獲得している新聞だったのだ。ところが、豹一の言葉は編輯長をがっかりさせてしまった。
「僕の性質としましては、あまり人なかに出るのは適当じゃないと思いますので、なるべく社内でやるような仕事をしたいと思います」正直な言葉だった。
「内勤か?」編輯長は不機嫌に口をとがらした。
「内勤はいま一杯ふさがっとる。校正やったら一人欠員があるけど――」校正と聞いて、豹一はぞっとした。畳新聞社で二年間毎日やっていた校正の辛さが想出された。豹一はあわてて言った。
「外勤でも結構です」
「――そうか。そんならひとつ気張ってやってんか。――そんなら今日はこれで帰って良えぜ。あした朝九時に来てんか。いま皆外へ出てるよって、あした皆に紹介することにしよう」
 豹一ははっとした。じつは面会の時間は九時と通知されていたのだが、例の癖で一時間以上遅れたのである。それを一言も咎めなかった編輯長に、豹一は好感をもった。
「じゃあ、あした来ます。九時ですね」
「そうしてエ」
 局長室を出た途端に、豹一は、「やあ」と、声を掛けられた。筆記試験の時壇上で妙な演説をやった男だった。
「君、入社したんですか」
「はあ」
「今日は用事ないんでしょう?」
「はあ」
「あったって構わん。お茶のみに行こう」男はさっさと階段を降りて行った。豹一もうしろからついて行った。
 社の表に一人の男が空を仰いで突っ立っていた。
「今日の天気はどないです?」豹一の連れの男はそう声を掛けた。
「さあ、雪でんな」空を仰いでいた男が言った。
「降りますかね」
「降りまんな」
 社の近くの喫茶店に落着くと、男は、
「いまの男は販売部長や。天気予報の名人やと自称しとるらしいが、満更当らんわけでもない。毎日空模様を見て、その日の印刷部数をきめるのがあの人の仕事でね。雨が降ると、立売が三割減るからね、なかなか販売部長も頭を悩ますよ。雪か。雪なら四割減るかな。――君傘は? ……傘いるよ」と、ひとりで喋った。「何をのむ?」
「珈琲で結構です」
「遠慮しなさんな、君に払わさんというわけでもないからね」にやりと笑って、「おい、珈琲二つと、トーストパン二つ!」と、注文した。
 珈琲とパンが来ると、男は、
「やり給え」あっけにとられて豹一が珈琲を啜っていると、「不味いだろう? ここの女の顔もそうだがね」
 そんな男の調子に圧倒されそうになったので、豹一はわざと図太い態度で、じろじろ女の顔を見廻し、なるほどねという顔をした。すると、いきなり、
「そうじろじろ見るなよ」男の声が来た
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