った。銀子は、
「北山さんはお酒のむから、きらいやわ」
 北山をげっそりさせた。
 噂によると、これまでどの女優にもそんなことをしなかった品行方正の北山が、舞台稽古の時たまりかねたのか、銀子をわざわざ舞台裏へ連れ込んで、永いこと銀子の頭に手をのせていたということである。銀子は随分いやがっていたということである。北山はすっかり面目をなくした。
 しかしそんな噂のおかげで、そしてまたしょっちゅう銀子の身辺から眼を離さなかったおかげで、銀子はどうやら此の一月無事だった。
 ところが、昨夜徹夜で舞台稽古をしたとき、北山は不覚にも泡盛に足をとられて、千日前の金刀比羅の境内で打っ倒れていた。その隙に、銀子は誰かに女にされてしまった。と、知ると、北山はやけくそになって朝っぱらからの迎酒に泥酔したあげく、ふらふらと二階の客席にまぎれこんで、しきりに銀子の名を呶鳴り出したのだった。
 頭の上まで足をあげながら、銀子は身が縮む想いだった。
「銀ちゃん、頑張れ、頑張れ!」
 北山は立ち上って銀子の踊りに合わせて、あやしげな身振りで踊りだした。どっと、笑い声が起った。見物人は舞台より二階の余興の方に気を取られてしまった。
[#ここから3字下げ]
ジャズで踊って、リキュルでふけて、
明けりゃダンサーの涙雨
[#ここで字下げ終わり]
 北山はしわがれた声で歌い出した。踊子たちはくすくす笑い出した。しかし、銀子は笑えなかった。踊りが済むと、銀子は楽屋へ駆け込んで、窓側にしょんぼり坐った。次の幕の衣裳をつける気もしなかった。泣けもしない顔を窓にくっつけていると、
「銀ちゃん、何してるの?」寄って来た踊子は、ふと路次を見て、「あら、誰や倒れたはるわ。銀ちゃん、見て御覧」
 銀子はいきなり子供のように声をあげて、
「みんな来て御覧! 誰や倒れてはるし」
 どやどやと窓側に寄って来た。
「ほんに。――喧嘩やろか」
 豹一はしょんぼり立ち上って、すごすご路次を出て行った。道頓堀の勝はとっくに姿を消していた。

      二

 薄暗い電燈の下で、お君は仕立物の針仕事をしていた。
 下寺町の坂を登って来る電車の音や、表を通る下駄の音は凍てついた響きに冴えて、にわかに夜が更けたようだった。お君は針の目に糸を通しながら、豹一の帰りのおそいのを想った。夜業でおそくなることもあるが、しかしこんなにおそいのははじめてだった。深くは気にかけなかったが、しかし犬の遠吠をきいていると、戸外の寒さが想いやられた。安二郎がけちだから、ほんのちょっぴり炭火をいれているだけだったが、それでも家の中はさすがに温みはあった。
 安二郎は背中を猫背にまるめて、しきりに算盤をはじいていた。算盤をはじいているときほど楽しいことは、またとないのだ。ことにそれが女房に貸しつけた金の元利計算と来ては、ぞくぞくするほどたまらない。夜のふけるのも知らなかった。しかし、繰りかえし計算したあげく、安二郎はおやと、不安になった。安二郎はお君の仕立賃のほか、最近は豹一がお君に渡す月給の幾割かをも右左にまきあげていたので、正直な計算によれば、もはや取るべきものはすっかり取ってしまったどころか、取り過ぎている勘定になっているのだった。安二郎は狼狽した。これ以上お君の手から取りあげるのは不正所得なのだ。われながらも浅ましいほど高い利率を課して来たのに、もうすっかり返済されているとは、なんとしたことか。かえすがえす残念だった。安二郎は自分の計算を疑った。もう一度おそるおそる計算してみた。同じことだった。この上は不正所得であろうとなかろうと、欺して取るより仕方がないと、安二郎は覚悟を決めた。しかし、お君は欺せても、豹一の眼はいまいましいほど鋭い。
「えらい冷え込んで来ましたな。炭つぎまひょか」お君が言った。
「なに言うねん。もったいない。きょう日炭一俵なんぼする思てるねん」
 安二郎は痔をわずらっているので、電気座蒲団を使っている。その電気代がたまったものではない。尻に焼けつく思いがするのだ。それを想えば、この上灰にしかならぬ高価い炭をうかうかと使うてなるものか。
(寒いといえば目茶苦茶に炭をつぎやがるし、暑ければ暑いで、目茶苦茶に行水しやがるし、どだいこのおなごの贅沢にも困ったもんや)
 行水をするとき、お君は相変らず何度も水を浴びた。湯気の吹き出た白い体にサッと水が咆り掛って、弾み切った肢体がすくっと立つ――そのなまめかしさを安二郎はたびたびうっとりと愉しむのだったが、やはり、消費される水のことを想えば胸が痛むのだった。水ならまだしも、炭と来てはまるで紙幣を焼いているようなものだ。僅かにお君の肌のほてるような温もりが安二郎の悲しい心を慰めるのだった。寒中炬燵なしでどうにか凌げるからだった。さすがに老齢で、足はチリチリと冷えるが、それも足袋をはいて寝れば、いくらか我慢が出来る。
(しかし、あの餓鬼は若い身空で贅沢に炬燵をいれてけつかる)安二郎はひょんなところでふと豹一のことを想い出した。(たかが炭団代というても莫迦にはならんぞ!)
 一月いくらになるだろうかと暗算して、なるほど莫迦にならぬと思った途端に突如として安二郎の頭に名案が閃いた。炭団代を豹一に払わせるのだ。今まで費した金ばかりに気をとられていて、「実費」を支払わせることが思いつかなかったのは、なんとしたことかと、安二郎は自分のうかつさをののしった。
 安二郎は再び算盤をはじき出した。先ず炭団代何十銭也といれた。間髪を入れず、水道代何十銭、次に電気代は何円何十銭也……。安二郎はにやりと笑った。取るべき実費はいくらでもあるではないか。食費何円何十銭也、部屋代何円何十銭也、――今月からは〆めて何十何円何十銭也を豹一に払わせるのだと、算盤の音は活気を帯びた。われながらうっとり出来る高額だったので、安二郎は今月から取りはじめるのはなんとしても惜しいと、いろいろ考えたあげく、子供の時分からの養育費を取るべきだという結論に達した。しかし、さすがの安二郎もそれは余り残酷だと思ったので、豹一が月給を取るようになってからの分を取ることに負けてやろうと、結局そこへ「手を打つ」ことにした。幾分の思いやりだった。その代りこれまでの分は利子をつけることにした。
 安二郎は余りの幸福さにわれを忘れてしまったので、
「お君!」と、思わず女房の名を呼んだ。しかし、べつに改めて言うべきこともなかったので、咄嗟に考えて、用事を吩咐ることにした。
「電気座蒲団の線はずしてんか」自分で立ってはずすと、その間座蒲団の温もりから尻を離さねばならない。それが惜しいのだ。
「よろしおま」お君は立ってコードをはずした。だんだん座蒲団の温もりがさめて行った。すっかり冷たくなってしまうと、安二郎はやっと尻をあげた。途端に痔の痛みが来た。
「あ、痛、痛、あ、痛ア!」
 尻を突きだしたじじむさい中腰で寝床の方へ歩いて行きながら、安二郎は、
(誰がなんちゅうても豹一から下宿代を取ってこましたるぞ)と、力んだ。(取る権利が無いとは言わせんぞ。そや。おれはあいつの親や。親ならどんな権利でもあるネやぞ)安二郎はこれまで豹一を負債者とばかり考えていたので、実は豹一が、息子であることにうっかりしていたのだった。(親やったら息子の儲を取るのは、こら当然や。あ、痛、痛! あいつはもう一人前の月給取やさかい、父親には下宿代を渡さんならん義務があるネや。それぐらいあいつでも知ってくさるやろ。高等学校まで行きやがって、それ知らんのやったら、こら学校の教育方針がわるいネやぞ)
 安二郎は豹一がいまは一人前の月給取であることに、父親の顔で悦に入った。
 丁度その時、戸外にしょんぼりした足音がして、今日失業したばかりの豹一が帰って来た。道頓堀の勝に撲り倒された屈辱をもて余して、当もなく夜更の街をさまよい歩き、もう十二時近かった。
 豹一は安二郎の寝巻姿を見て、途端に胸が塞がった。安二郎の着物を畳んでいる母の姿が眼に痛かった。
「どないしてん? えらい遅かったやないか」お君が言ったが、豹一は返辞をせず、さっさと二階へ上ってしまった。むろん安二郎にも挨拶一つしなかった。
 そんな豹一にお君はふっと取りつく島のない気持を感じたが、しかしお君はそれを苦にもせずえらい物言わずの子やなあと、ただそれだけだった。しかし、豹一の寒そうな後姿を見て、
(オーバーたらいうもん買うてやらんならん)
 この頃針仕事の賃を、安二郎の言うままに渡して来たことを、お君はちょっと後悔した。
(内緒で銭を蓄めんならん)長い睫毛のうしろで綺麗な眼の玉をくるりくるりまわしながら、針箱の抽出へこっそり隠すべき一円紙幣や五十銭銀貨を頭に描いた。(オーバーてなんぼ程するのやろか)
 しかし、安二郎が声を掛けたのでお君はその思案を中絶しなければならなかった。そして、白い炬燵になった。
 豹一は二階で長い欠伸をしていた。精も張もない長い欠伸を虚ろに吐き出している自分がさすがに情けなく、乱暴に洋服を脱ぎ捨てた。そして、蒲団のなかへもぐり込んだ。炬燵が入れてあった。ふっと温いものが足から眼に来た。その拍子に、母親に返辞一つしなかった自分の態度がチリチリ後悔された。
 失業したときかすのがいやで、わざと口を利かなかったのだとは、この際良い加減な弁解だった。つまりは、理由もなく口を利く気がしなかったのだ。今日にはじまったことではない。日頃から豹一は安二郎のいる前では母親につとめて口利かず、そんな習慣が出来てしまっていることをひそかに詫びる気持をもちながら、どうすることも出来なかった。そのたび、何か済まない、済まないと思うのだったが、しかし今夜ほどそれが胸をしめつけたことはなかった。気の弱りだろうか、豹一はシンと鼻に泪がたまって来た。
 思えば今日の豹一は、たしかに泣きたくなるほどみじめだった。しかし、それだからとて、こっそり泪を流すとは、日頃の豹一の流儀から言えば、だらしがないのだった。そんな気の弱まりは、かねがね自分には許してない筈だ。しかし、さすがの豹一も母親の顔を見た途端に、徹頭徹尾心の張りをなくしてしまい、失業のことが針のように感じられたのだった。自他ともに颯爽としていた筈の今日の失業も、にわかにみじめになってしまったのである。
 母親が入れてくれたのだと思えば、炬燵の温もりが痛いほど感じられて、豹一は思わず、
「えらいことをしてしまいましてん。失業しましてん。えらい済んまへん」ぶつぶつと声を出して呟いた。
 すっかり気が滅入ってしまった豹一は、誰も見ていないので、もうやけにだらしなく泪を流し、しまいに悔恨の気持が妙に動物的なものになってしまって、こつこつと頭を敲きはじめた。しかし、その動作が豹一にふと、道頓堀の勝に撲られたことを聯想させた。すると、豹一ははじめて決然として来た。あわてて泪をこすると、豹一はいきなり狂暴な表情になり、弥生座の裏路次でぶざまに倒れていた自分の姿を想い出した。
 朝、安二郎は豹一の起きて来るのを待って、
「なあ、豹一」珍らしく自分から話しかけた。
「あのな、……」
 以下の言葉はここに写すまでもあるまい。豹一の答は頗る簡単だった。
「よろしい。欲しいだけ取って下さい。なんなら月末に請求書を出してもらいましょうか」さすがに声は顫えていた。が、請求書という巧い言葉を思いついたので、豹一の興奮はいくらか静まった。
 しかし安二郎は請求書ときいて、飛び上らんばかりに喜んでいた。こんなに簡単に、いざこざなしに話がつくと思っていなかったから、余り話がうますぎると、ちょっぴり不安に思ったぐらいだった。
「用談」が済むと、豹一はいつものように畳新聞社へ出勤する顔で、さっさと家を出た。夕方帰って来た豹一は、しかし昨日のままの失業者に過ぎなかった。

      三

 凍てついた道を寒風が吹き渡っていた。豹一は寒そうに身を縮めたしょんぼりした恰好で、街から街へ就職口を探して空しく、歩きまわっていた。
 昭和十六年の常識からはちょっと考えられぬところだが、当時は、大学出の青
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