握るといわずに、掴むというところが、豹一らしい。
「ねえ? あんた、お家《うち》どこなの?」
豹一は返事をしなかった。一つ二つと数え出していたからである。
(五つ、六つ……十、十五、……二十、……)
いきなり煙草の銀紙をまるめた玉が飛んで来て、豹一の肩に当った。
(二十七、二十八、……どいつだ? 二十九、三十、……)
豹一はじろりと部屋の中を見廻した。若い男と視線が合った。咄嗟ににらみかえして、豹一は、
(あいつ、この女に気があるらしいな)と、思った。その男もじっと眼を据えて、にらみかえしていた。女は素早く二人の容子に気がついて、
「およしよ。あの人、不良よ」豹一の耳の傍で言った。
不良と聴いて、豹一の眼は一層凄みを帯びた。余りににらみ過ぎて、泪が出そうになったので、あわてて、眼をこすって、またにらみかえした。
(よし、あの男の眼の前で、この女の手を掴んでやる! それから、あの男に飛び掛って行くんだ! おっと、数えるのを忘れていた。一足飛びに五十と行こう。……五十一、五十二、……)
豹一の顔はだんだん凄く蒼白んで来た。ルンバの早いテンポに合わせて、数え方も早くなって行った。
(百数えて、これが実行出来なければ、お前はおしまいだ! 一生人に軽蔑され続けるんだぞ。それでも良いか? お前の母親は辱しめられたんだぞ)
もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。銀紙を投げた男はいまにも飛び掛って来そうだった。
(六十二、六十三……、六十七、六十八、……)
豹一ははげしく胸の音を聴いた。ついぞこれまで女の手を握ったことが無いのである。
「七十、七十一、七十二、……七十五、……」
はねつけられた時のことを考えると、だんだん勇気が挫けて来た。いきなり、豹一は声を立てて数えはじめた。
「七十六、七十七、七十八……」
女はあきれてしまった。(この人気違いではないかしら?)
豹一はもうそんな女の顔を見向きもしなかった。ただ、じっと男の顔をにらみつけていた。
「七十九、八十、八十一、……」
ルンバの騒音は豹一の声を殆んど消していた。が、豹一の真赤になった耳は自分の声と格闘を続けていた。
「八十一、八十二、八十三、……」
「らっしゃいませ」
「珈琲ワン」
「ありがとうございます」
「ティワン」
喧騒のなかで、豹一の声は不気味に震えていた。
「八十四、八十五、八十六、……」
色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」
[#改段]
第二部 青春の逆説
第一章
一
「……九十、九十一、九十二、九十三……」
唱名のように声をだして、豹一は数を読みつづけて行った。
豹一は顫えていた。声まで顫えていた。
いつもの豹一ならそんな自分を許しがたいと思ったところだ。いつ如何なる場合にも声が顫えるようなことは金輪際あってはならないのだ。それが豹一の掟だった。いったいにわれにもあらず興奮した姿を見せるのは、かねがね醜態ということに決めているのである。だいいち、この場合声を出すことすらいけないのである。百読む間に女の手を握るという思いつきは、余り賢明な思いつきとはいえないが、それは兎も角、数を読むならば黙って読めば良いのである。動物的に浅ましく声を出し、おまけにその声が顫えるなど以ての外である。
しかし、無我夢中になっていた豹一には、そこまで気がつく余裕はなかった。いわば耳かきですくうほどの冷静さも残っていなかった。興奮をおそれなくなるほど、興奮していたのである。
「……九十四、九十五、……」
相変らず、いやな声を出していた。
「……九十六、九十七、……」
あと三つで百だと思うと、むしろ情けなかった。百になれば、女の手を握らなくてはならない。この死ぬほどの辛さと来ては、百ぺん失業した方がましだと思うぐらいだった。
だいいち豹一にはついぞこれまでどの女の手を握った経験もない。友人と握手するのさえ照れる男である。それが初対面の女の手をいきなり握ろうというのだから、いってみれば無暴だった。しかも豹一は坐っていて、女は立っている。物かげでこっそり握るというわけにはいかなかった。衆人環視のなかである。たとえどさくさまぎれで握るとしても少くとも二つの眼だけはそれを見逃すまい。挑み掛るようにじっとこちらを睨んでいる二つの眼、――いまさき煙草の銀紙をまるめて投げた男だ。しかし、それよりも豹一がおそれているのは、手を握ろうとして女にはねつけられた場合のことである。
「いやな人!」と、逃げられたら、自尊心を傷つけられた想いに先ず当分は悩まなくてはならない。いや、逃げられるぐらいならまだ良い方だ。「キャッ!」と、声を立てられたりなぞすれば、眼もあてられない。しかも、その可能性はどうやら無限大だった。女はべつに好意を示しているわけでもないと、豹一は思っていた。それどころか、どうやら軽蔑していると思われる節もある。冬空にオーバーもなしに、柄にもない喫茶店へまぎれ込んで来た男など、充分軽蔑に価する筈だ! おまけに女は歯切れの良い東京弁と来ている。
だからこそ、握り甲斐もあるわけだと、そんな妙なことを思いついた自分を、豹一はいますっかり後悔していた。しかし、乗り掛った船だった。それが実行出来ないようでは、死んだ方がましだと、豹一は「ひるむ心に鞭あてた」気持を振い起していた。自然、声も出る。
「……九十八……」あと二つだ。
「手相を見てやろう」などといって、こそこそ握るようなやり方では駄目だぞと、豹一は咄嗟に自分に言いきかせた。
「……九十九……」
九十九・五というのはない。ぐっしょり汗をかいた。一秒だった。
「百!」
豹一は無我夢中で手を伸した。そして女の手を掴んだ。手は引込められようとした。豹一はあわててぐっと力を入れた。女の掌は顔に似合わず、ざらざらしていた。しかし、さすがに若い女らしい温みがあった。咄嗟のうちに、豹一はそれを感じた。女の手に急に力がはいった。それも感じた。しかし、豹一は女の顔をよう見なかった。見れば、うんざりしたところだ。女はびっくりして、随分頓間な顔をしていたからである。しかし、それも豹一のせいだ。いきなり握る――のは良いとしても、それはまるで掴むといった方が適しいほど味もそっ気もない乱暴な握り方だった。酔っぱらいでも、少し相手が女だということは、勘定に入れている筈だ。少くとも握った瞬間に、妙な骨の音なぞしない。しかし、豹一は成功の喜びに酔うていた。(おれは衆人環視のなかで此の女をものにしたのだ!)
義務を果してしまえば、もう用のなくなった女の手を、豹一はいきなり離してしまった。他愛もないことだが、豹一にとっては、女をものにするという欲望は、この程度の簡単なことで満足されるのだった。二十歳の年頃にしては、少し慾が無さすぎるかも知れない。手を握るという義務を果せば、もうあと用事はなく、二度と会うこともあるまいなどと、まるで昆虫のようなあっけ無さである。もっとも、もし豹一がそこで女の顔を見れば、為すべきことが未だ少し残っていると思ったかも知れない。――女はぷっとふくれた顔をしていた。豹一があまり早く手を離したので、莫迦にされたと思ったのである。そんな不満な表情を見れば、豹一のことだから、嫌われたのだと早合点して、もう一度握りかえさねばと、思い直したことであろう。――しかし、もっけの倖いには、豹一はそんな無駄なことをせずに済んだ。
銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来たからである。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。その時、まるでわざとのようにルンバの曲がやんだ。レコードを仕かえるまで、少し間があった。
「あんさんとは今日こんお初にござんす……」案の定、わざとらしいはったりの仁義を掛けて来た。鼻に掛った声だった。「……野郎若輩ながら、軒下三寸を借りうけましての仁義失礼さんにござんす……」そうして、男は聴馴れぬ調子でぺらぺら喋り立てたが、再び電気蓄音機が鳴り出したので、はっきり聴きとれなかった。曲は「赤い翼」。豹一は自分が案外落着いているのを嬉しく思った。
「表へ出くされ!」柄のわるい妙な大阪訛で男がいった。これは聴き洩さなかった。聴き洩すと、恥になる。豹一は伝票を掴んで立ち上った。
勘定を払って表へ出ると、男はしきりに洟をかみながら待っていた。蓄膿症らしい。(随分威勢のあがらぬ与太者じゃないか)豹一はその男を小馬鹿にしたくなった。男は洟をかんだあとの紙を小さく畳んで袂にいれると、鼻をクスンクスンさせながら、「随いて来い」と、言った。豹一は黙ってうなずいた。
男は御堂筋をナンバの方へ歩きだした。ぞろりと着流しの上へ総絞りの兵児帯を結んだ男の恰好はいかにもちゃちな与太者めいていたが、歩を移すたびにその結び目が尻の上で揺れるので、うしろから見て豹一はふとおかしくなった。女のような大きな尻だった。
御堂筋から南海通の方へ折れて行った。黙々として歩きながら、豹一はどうした訳か気持が些かも殺気立って来ないのに弱った。
男は振り向いた。そして、
「来くされ!」はき出すように言った。
南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。二人並んで歩けないほど狭かった。弥生座の裏手あたりまで来て、男は立ち止った。そして洟をかんだ。それが済むとねちねちした口調で言った。
「おい! お前逃げもせんと、よう随いて来たな。ええ度胸や」
「そうかね」豹一は四十男のような口を利いた。男はちょっと考えて、
「ええ度胸かなんか知らんけど、生意気な真似しやがると、承知せえへんぞ! ええか、おい、ちょっと男前や思て、ひとのスメ(娘)に手エ出しやがって、それで済む思てけつかんのか、おれを誰や思てけつかんのや、道頓堀の勝いうたら、お前みたいな、へなちょこの軟派とちょっと違うネやぞ。――さあ、どやしたるさかい、面を出しくされ!」
しかし、道頓堀の勝の手が伸びて来るまで、少し間があった。そのため豹一はすっかり焦れていたので、いよいよ道頓堀の勝の拳骨が飛んで来た時、待ってましたと思ったぐらいだった。
「待ってました!」
弥生座の舞台にレヴュー「銀座の柳」の幕が上った途端、二階の客席からそう奇声があがった。
「東銀子頑張れ!」
知らぬ人は、東銀子とは舞台の前方へ一人抜け出してチャールストンを踊っている主役の踊子だと、思ったかも知れぬ。が、実は後列の隅の方で沢山の踊子にまじって細い足を無気力にあげている胸の薄い少女が、東銀子だった。
「銀ちゃん、頑張って頂戴」
声のする方を見あげて、銀子は、あ、北山さんだと、手をあてた腰を動かしながら、ふっと泪が落ちそうになった。いつの間にまぎれ込んだのか、二階の客席でしきりに銀子の名をよんでいるのは、文芸部の北山だった。
昭和…年頃のあやしげなレヴュー団によくあった例だが、そのレヴュー団、ピエロ・ガールスではたいていの踊子たちは入団した途端に女にされてしまう。そのたび、文芸部の北山はものの哀れを感じたといって、泥酔してしまうのだった。
東銀子は十七歳、一月前に入団したとき、その少年のような胸を見て、北山は男優一同に、
「此の子にさわるでねえぞ!」と常にない凄んだ声で駄目を押した。
「するてえと、バッカスの旦那が、泡盛の肴に生大根を囓るって寸法ですかい」
北山は先生とはよばれず、バッカスの旦那で通っていた。未だ三十五、六だが、浅草にいた頃の電気ブラン、浅草から千日前へ崩れて来てからの泡盛のために頭髪がすっかり禿げあがって、爺むさかった。
「莫迦野郎! おれは小便臭いのは此の小屋の臭いだけで充分だ」
そうはいったものの、しかし間もなく起った「北山老人は東銀子にプラトニックラブを捧げている」という噂を、北山自身敢て否定しなかった。そう思わせて置く方が銀子をまもるためにも良いのだと、つまり北山もいつかその噂を否定しがたい気持になっていた。毎夜小屋がハネると、南海通の木村屋喫茶店へ銀子を連れて行
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