しもはや不正を前にしては、そんな同情はこの際の勘定にいれる必要はなかった。
「なんでや?」社長はさすがに糊から眼を離したが、豹一の真蒼な顔を見ると、なに思ったか、とんとんと二階へ駈け上って行った。
「毛利君、どないしたんや? お腹でも痛いのか?」園井はびっくりした声で、しかしわざとゆっくりとそう言った。豹一は返事をしなかった。間髪をいれず社長のあとを二階へ追うて行って、辞職を申出でる必要があるか、どうか、咄嗟のうちに考えていたからである。
(まごまごしていて、時期を逸しては醜態だ)そう思って、二階へ行こうとしたところへ社長が降りて来て、豹一に市電の切符を二枚渡した。
(莫迦々々しい。まるで俺が、電車賃を惜しんで、府庁へ行くのをきらったのだと思っていやがる)それで、彼の決心はいよいよ固くなった。
「僕は今日限り廃めさせていただきます」わりに丁寧な声が出たので、われながら気持良かった。
「なんでや? 藪から棒に――」
巧く理由が説明出来そうにもなかったし、また、一刻もそこに居りたくなかったので、物も言わず、いきなり外へ飛び出した。戸を閉めるとき、乱暴に大きな音がした。はっとそれが気になった。二、三間歩いてから、振り向くと、軒先に「日本畳新聞」の看板が貧相に掛っているのが眼にはいった。そこが薄汚いしもた屋であることも、なんとなしに眼に痛かった。足蹴に掛けたという気持が思い掛けず、胸を重く締めつけた。まる一年半、少くとも自分の失業を救ってくれたのではないかと、力無く呟いてみた。自分が廃めたあと、社長はまた頭がふらふらするといいながら、ひとりで編輯しなければならないのだと、社長の皺だらけの薄い胸や、壊れかけたガラスペンなどが頭に泛んで来た。僅に、(しかし、社長はあの不正の手段で、五、六万円の金を溜めて来たんだ)と思うと、気が楽になり胸を張って勝山通四丁目の停留所の方へ歩いて行ったが、直ぐに気の抜けた歩き方になった。停留所まで来たが、電車を待つ気になれなかった。ただなんということもなしに、当もなく電車道を歩いて行った。寒いのでせかせかと足早に歩いたが、不正と闘ったという心の張りがちっとも感じられなかった。
(到頭失業者になったぞ)という想いが追いかけて来た。天王寺西門前からやっと西行きの電車に乗った。が、一つ停留所を過ぎただけで、もう恵美須町の終点だった。乗換券も貰わずに降りて、新世界へ行った。活動写真を見たりして時間を潰しているうちに夜になった。恵美須町から電車に乗り、日本橋筋一丁目の乗換場所で降りて、谷町九丁目へ行く電車を待っているうち、ふと気が変って足は千日前の方へ向いた。なんとなく家へ帰るための電車を待つ気がしなかったのである。千日前から法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明りが寝呆けたように揺れていた。豹一はなにか暗澹とした気持になった。
境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。胸に痛いようなしょんぼりした薄暗さだと思われた。
「ちょっと、ちょっと、洋さん」声掛けられて急いで通り抜けて行った。前方には光が眩しく流れていて、戎橋筋だった。その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったようだった。それが豹一の心に眩しかった。
その光の中に、詳しく言えば、小間物屋の飾窓に立って、飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて、豹一の顔を見た途端、
「あッ」思わず同時に、声が出た。か、どうかは咄嗟のことであとから考えてみても記憶はなかったが、豹一はいきなり突っ立ったまま、暫く動けなかった。紀代子だった。薄暗いところから出て来た豹一には、紀代子が明るい光のなかにいるせいか、思い掛けず美しく見えた。それが豹一の頭に、
(俺はいま失業者だ)と不意に想い出させた。そのため、豹一は一層狼狽してしまった。貸席のある横丁からのこのこ出て来たということも、咄嗟のうちに頭にあった。
紀代子は直ぐ視線を外らし、飾窓の前を離れて歩き出した。それで、彼女に連れがあることがはじめて分った。彼女は実に簡単に素知らぬ顔をつくっていた。
(亭主だな)豹一は途端に察した。どんな顔をしているか、見てやろうかと、覗いてみたが、極めて平凡な顔だったので、印象がはっきりしなかった。つまり紀代子の亭主は世間にざらにある若い亭主の顔をしていたのである。
二、三間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。豹一の自尊心は簡単に傷ついた。丁度自分の身なりの貧弱さを気にしながら、おずおずとあとに随いて行きかけた矢先だったのである。紀代子の舌に噛みついてやりたいぐらいのいまいましさだったが、それが実行出来そうもなかったので、一層口惜しかった。豹一はこそこそと反対の方へ引きかえして行った。靴の底がすり切れて、ペタペタと情けない音を立てた。
しかし紀代子も実は恥しい想いをしていたのである。豹一の顔が暗がりからぬっと出て来た時、紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を実に醜いと思った。さすがに豹一は未だ少女のような顔をしていたのである。しょんぼりしていたので、一層可憐だった。洋服がお粗末だったので、にやけて見えることも免れていた。紀代子はなんとなく豹一の手前恥しくなった。亭主の顔のことばかりでなかった。彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。亭主は官庁に勤めていたが、未だハンドバッグが簡単に買えるほどの月給は貰っていなかった。それが紀代子には豹一の手前ひそかに恥しかった。しかも、そのハンドバッグはたった四円八十銭ではないかと、こそこそと逃げるように立去ったが、それでは余り芸が無さ過ぎると思った。ふと振り向いた。その途端にペロリと舌を出した。女学生のような無邪気な仕草をちょっと借りてみたのは咄嗟の智慧だった。それでなんとなく世帯臭い恥しさが隠せると思ったのである。それに、ちょっとした媚態になるではないかと、紀代子は計算していた。だから一層効果的にと、長い間舌を出していた。つまりは年に似合わぬ悪どい表情だった。
ところが豹一にはそんな紀代子の気持は分らず、紀代子の念入りの表情を見てすっかり参ってしまった。(よし、どうあっても自尊心の傷を回復しなければならぬ!)戎橋の上を通りながら、豹一は上衣のボタンを一つちぎってしまった。彼の心は朝から興奮に駆られ易い状態にあった。いきなり難波の方へ引き返した。(紀代子の顔を撲ってやる義務がある)こんな野蛮なことを考えた。電車通のゴーストップで信号を待っていると、ふと、(しかし、まさか雑閙の中で撲るわけにも行くまい)青が出て、大股で横切りながら、(いや、雑閙であることが是非必要なんだ! 効果もあるし、しかも非常な勇気が要る)
四
半時間ほど戎橋筋を駈けずりまわったが、紀代子の姿は見つからなかった。おかげで雑閙のなかで女の顔を撲るという不愉快なこともせずに済んだと、ほッとした。が、同時にひどく意気込んでいただけに、がっかりして諦め切れぬ気持が残った。なおも未練たらしくうろつき廻った挙句、魂の抜けたような顔をして喫茶店にはいって行った。
「らっしゃいませ」
ひどくはすっぱな声がしたので、びっくりして顔をあげると、厚化粧をした女の顔が五つ、六つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。カフェではなかったかと、豹一は思わず入口の方を振り向いたが、カウンターが入口にあるところや、女たちが皆突っ立っているところを見ると、そうでもなさそうだった。しかし、それにしてもまるでカフェのような喫茶店だと思うと、豹一は逃げ出したくなった。この際ミルクホールのようなしょんぼりした喫茶店でぽかんとしているのが適しいのである。が、うかうかと間違ってはいった以上、こそこそ逃出して、似顔画描かなにかと思われては癪だと、ルンバの音を腹立しく聴きながら、隅の方の席へ坐った。
女たちはいずれもあくどい色のイヴニングを着て、ルンバに合せて、妖しく尻を振っていた。例外なしに振っているところを見ると、営業者の命令であるのかもわからなかった。安来節踊りの腰付きのようなものもあれば、レヴューガールのような巧妙なのもあった。が、いずれにしても醜悪を極めていた。ふと女たちの眼が一せいに自分に注がれているのに気がついた。豹一は自分の眼の方向を見抜かれたと思い、みるみる赧くなった。
ところが、女たちが彼の方を見ていたのは、彼が実に一風変っていたからである。彼はまるで飯屋へ入るような容子で、ここへはいって来たのだ。普通男たちは例外なしに、多少とも気取ってはいって来るものである。わざと何気ない顔を渋くつくろう方などは良い方で、レコードの調子に合せてステップを踏みながら席につくなど、ざらである。帽子に手をかけたり、ネクタイにさわったりするのが十人のうち六人ぐらい。友達づれは、たいていわざとらしく話をしながらはいって来るか、誰か一人が女の立っている傍の席を見つけると、他の者がへっへと笑いながら随いて来る。女と顔見知りの者は「あいつ来てへんかったか」といいながら来るのが十人のうち四人。黙って顔をにらみつけながらはいって来るのが四人。あとの二人は、「どうぞこちらへ」というまで坐らない。
ざっとこんな風だったから、豹一のようになんの気取りもなしに、行きつけの飯屋へはいるような容子でぶらりとはいって来るのは珍らしいのである。実は元来気取り屋の豹一も、ここへはいって来る瞬間、さすがに気取るだけの心の張りを無くしていたのである。だから、随分人眼をひいた。おまけに彼は美貌だった。つまり彼女たちに言わせると、一風変っていたのである。
眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来て、
「あんた、ボタンがとれちゃってるわよ」と、豹一の上衣にさわった。彼女も、もし豹一が赧くなっているのでなかったら、こんな風に馴々しくしなかったのだ。普通、若くて美しい男は蒼い顔をして、じっと眼を据えているものである。つまりどこか不良くさいと、一応は敬遠されるものだ。豹一はおどろいて、上衣を見た。二つともボタンがとれていた。一つは戎橋の上でちぎって捨てた記憶はあるが、あとの一つはどこでとれたのかわからなかった。
「恋人につけて貰いなさいよ。みっともないわよ」私がつけてあげますよと言わんばかりだったが、そんな眼つきがわかるほどには、豹一はすれていなかった。
「恋人なんかあるもんか」殆んど口に出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。紀代子のことがちらりと頭に泛んだからである。恋人がないということが、この際なにか恥しいことのように思えた。なお、ボタンがとれていることも、なにか失業者じみている。だいいち、上衣のボタンの無いのが眼につくのは、寒空にオーバーも着ていないというはっきりした証拠になる!
(よし、この女を恋人にしてやる)
だしぬけにそう決心した。みっともないと言われたことが、我慢がならなかった。おまけに東京弁だ!
「どうしてとれちゃったの?」女はなおも上衣にさわっていた。香油の匂いが鼻をついた。豹一は顔をしかめた。
(まるで質屋の小僧のように俺の洋服を調べてやがる)豹一の決心はいよいよ固くなった。かつて、毎日質屋へやらされたことを腹立しく想い出した。続いて、かつてのさまざまなみじめな出来ごとが、次から次へ頭へ泛んで来た。
(こんなみじめな俺が衆人環視のなかで、この女を恋人にして見せるのは、面白い)
紀代子の顔を撲れなかった代償としても、充分やり甲斐のあることだと、豹一は胸を熱くしていた。が、衆人環視のなかで、恋人にしてみせるとは、いったいどんなことなのか、豹一にはわからなかった。ふと、顔が赧くなるような、乱暴なことを思いついた。が、さすがに実行出来なかった。それどころか、物を言おうとすると、体が固くなって来た。
(こんなことでは駄目だぞ! よし、百数えるうちに、この女の手をいきなり掴むのだぞ)そう言い聴かせた。
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