んた――」妻君は義眼でない方の眼をふっと細めて、「こないだ中までいてくれはった菅はんいうお人をね、わてと怪しいいうて追い出したり、そら焼餅やかはんのどっせ。わてはもういつ何時《なんどき》でも、暇貰おう思てまんのどす」
そんな妻君の愚痴を、手紙の文章に纒めあげるのはむずかしかった。
「もう永いこと返事を出せしまへんのどす。うちが字の商売をしていてからに、手紙一本書けへんいうわけに、いかへんどっしゃろ。どうぞ、書いとおくれやっしゃ。ほかの人に頼まれへんのどっさかい」
そう言われてしきりに頭をひねっている時、豹一はふと、園井があのように律義に働いている理由がわかったと、思った。すると、にわかに周囲の空気が重くるしく感じられて来た。豹一は直ぐにも逃げ出したくなった。しかし、豹一は実行しかねた。手紙の代筆が済むと、相変らず帯封を書き続けるのだった。そこをやめて、ほかに働く当もないのだ。豹一はそんな自身が、さすがに卑屈だと恥じられた。
翌日新聞が刷り上って来たので、その発送をしなければならなかった。八頁の新聞だから先ず二枚ずつ頁を間違えぬように重ねる。次にそれを小さく畳む。それへ帯封を巻きつけて糊をつけるのだ。四千部、夕方までに発送を済まさねば、発行期日に間に合わぬというので、社長、妻君、園井、園井の妻君、豹一の五人掛りだった。豹一は新聞を畳む仕事をやらされたが、八頁のものを折目を正しくつけて小さく畳むのには、かなり力が要った。百部も畳まぬうちに掌の皮が擦りむけた。豹一は窓側に置いてある牛乳の瓶に眼をつけて、それで折目をつけることにした。それで、少し楽になった。百部畳むと、床の上に積んで、斜めに崩し、折目をスリッパで踏むのだ。前へ、後へと踏みながら、豹一は泣き出したい顔をぽかんと天井へ向けていた。
分業だから、少しも休むわけには行かなかった。欠伸一つ出来ぬ忙しさで、豹一は泡食っている咄嗟に、チャップリンの「モダンタイムズ」を想い出した。(新聞記者だと思っていたのに、これではまるで労働者だ)
僅に正午の休みを想って心を慰めていた。サイレンが鳴ると、飛び出して喫茶店へはいり、冷たい珈琲をのんで、椅子の上でじっと眼をつむって横になっていよう。しかし、正午が来ても休憩はなかった。パンを頬ばりながら、仕事を続けねばならなかった。
「遠慮せんと、食《や》ってや」
社長の言葉にいちいち礼を言わねばならないのが情けなかった。いつものように、午後の日射しが執拗にはいって来た。額から流れ落ちる汗が瞼を伝うと、まるで涙を流しているのではないかと、思われた。いつか豹一は、大声で歌を唄っている自分にびっくりした。そうでもしなければ、その機械的な仕事に堪えられなかったのだろうが、動物じみて大声を出している自分がさすがに浅ましかった。
いきなり肩を小突かれた。体が宙を飛んでいるような甘い快感がはっと破れて、にわかに眼の前が明るくなった。立ちながら、うとうと居眠りをしていたらしかった。眼が覚めた拍子に、手は反射的に新聞を畳んでいたが、「居眠りしてる場合やあれへんぜ。しっかりしてや」そう言って、社長はなおも二、三回豹一の肩を小突いた。咄嗟に豹一の頭は、牛乳の瓶をがちゃんと机の上へ敲き割って、そこを飛び出すことを想った。
(こんなに侮辱されても、未だここで働きたいのか? 単にいやなところだというのではない。侮辱されたんだぞ)豹一の眼は久し振りにぎらぎら光って、部屋の中をにらみ廻した。が、ふと社長の妻君がせっせと帯封に糊をつけているのを見た途端、その光はあっけなく消えてしまった。社長の妻君のバサバサした髪の毛の聯想で、母親のことが頭に泛んだからである。
(ここを飛び出せば、当分また失業だぞ、それでもお前は母親の手前平気で居れるというのか?)豹一は握りしめた牛乳の瓶で新聞の折目を押えた。(母親のことを考えたら、自分勝手な気持で行動することは許されないぞ)
突然頭に泛んだこの考えは、しかし豹一自身にも意外だった。今まで自分の行動を支えて来た筈の自尊心を、こんなに容易く黙殺出来ようとは、夢にも思っていなかったのである。
「どうも昨夜《ゆうべ》寝不足でしたもんで――」そう言って、へっへとだらしなく笑っている自分にも、驚いてしまった。さすがに顔は蒼ざめていた。
三
月末、日割勘定で月給を貰った。電車賃や、昼食代を差引くと、いくらも残らない額だった。書潰しの封筒の表に毛利君と書いた月給袋を社長から渡されたとき、さすがになんとなく屈辱を感じた。
(これが欲しさに辛いことを我慢して来たのか?)そう思うと、たまらなかった。(いや、月給は問題外だ。ただ我慢して働くということが俺の義務なのだ)そう思って慰めた。しかし、帰って母親に見せた時の母親の顔で、さすがに労が報いられた気持がした。
「お前みたいな疳癪もちの子でも、よう使てくれはるな。有難いこっちゃ」お君はそう言った。
「ほんまにいな」そんな大阪弁で豹一も笑いながら言った。
「月給を貰うのやさかい、お前も洋服こしらえたらどないや?」
「いや、構へん。これで結構や」
今まで高等学校の制服をボタンだけつけかえて通して来たのだった。元来が見栄坊の彼だから、体裁の悪さは存分に感じて来たのだが、この際余計な金は使いたくないと我慢していたのだった。が、結局母親が執拗く薦めたので、月賦払の洋服をつくることにした。
縞のワイシャツの上へ地味なネクタイをしめて、上衣のボタンを丁寧に二つもはめると、如何にもお勤人らしくなった。その姿でびっしょり汗をかきながら出社すると、社長は、「これは、これは」と、驚いた顔をして見せた。社長は褌一つだった。
豹一は暑いというのを理由に、上衣を脱ぎ、往復にも肩に担いだ。それではじめて新調の洋服を着ているという気恥しさから免れた。が、不器用な彼はネクタイが上手に結べなかったので、道を歩きながらでもしょっちゅうネクタイの結び目へ手をやっていた。だから、誰も彼を一眼見れば、彼がお洒落男か、それともはじめて洋服を着た男であるかのどちらかに違いないと、簡単に見抜けたわけである。
(はじめて背広を着る気持は、葬式の日に散髪するようなものだ)
当分の間、彼はこんな風に洋服に拘泥っていた。電車の中でも、道を歩いていても、人の洋服ばかりに気をとられていた。つまり、自分より年をとった人ばかり、それも大抵お勤人ばかりを注視していたのである。
(あの会社員らしい男は、夜寝る時ズボンを蒲団の下へ敷かないらしい)等々。自然、豹一の感情はだんだん分別臭くお勤人じみて来た。帽子屋の飾窓の前に立って、麦藁帽など物色しないのが、まだしもだと言えるぐらいだった。
日が暮れて、とぼとぼと帰る途、下を向いて歩く習慣がついた。
「心身共に疲労した。心身共に疲労した」豹一はそんな言葉をぶつぶつと呟きながら歩いた。三高にいた時、漢文の教師から「君は心身共に堕落している」と言われたことがあった。それを、なんということもなしに思い出していた。その時教室の中でケッケッと笑っていた。そんな元気はいまは無かった。
まるで泳ぎつくようにして、日曜を待ち焦れた。が、日曜が発送日に当っていることもあった。すっかり悄気てしまうのだった。休むわけには行かず、夜おそく新聞を畳んで、郵便局までリヤカーにのせて持って行くのだった。翌日、代休を申出る勇気もなかった。二週間打っ続けに働いて、やっと休みになると、漫才小屋へ行った。他愛もなくげらげら笑って、浅ましかった。月末になると、こともあろうにひそかに昇給を期待する顔をして、一層浅ましかった。たいして骨惜しみせずに、こつこつ働いているとわれながら感心していたぐらいだし、しかも記事など永年の経験者である社長よりも上手だったから、ひょっとしたらという気があった。しかし、やはり社長は五厘切手一枚のことにも目の色をかえる男であった。昇給どころか、豹一が原稿用紙を乱暴に無駄使いするので、口実さえつけば減俸してやりたいぐらいに思っていたのである。
(なまじっかお情けに一円ぐらい昇給させて貰って、愚劣な喜び方をするよりは、いっそ永久に昇給しない方がましだ)そう思ってみたものの、矢張り月給袋の中を見ると、なにか侮辱されたような気持がして、ひそかに社長に腹を立てた。が、そんな自分にはさすがに一層腹が立った。
(お前も随分卑俗な人間になってしまったではないか)
もはや自分が許しがたい人間になってしまったと、豹一はがっかりした。何故こんな風になったのかと考えてみたが、分らなかった。もともとはじめから、彼は働くことの面白さなどという贅沢なものを味わなかった。いきなり帯封書きだったのである。だから、毎日が実に退屈な、無気力な日々の連続であった。昇給のことでも考えているよりほかに、致方がなかったのである。彼にとって不幸なことは、彼が同僚というものを持たなかったことである。社長、園井、自分、この三人しか社にいなかったが、園井はもはや昇給のことは諦める気持を十年養って来て、いまはもっと大きな野心で、ふくれあがっている。つまり、誰も昇給のことに血眼になる者がいなかった。だから、豹一ひとり知らず知らずそんな風になってしまったのである。いわば、独立の道を切りひらいたのである。
(少しも昇給しないのは侮辱されているようなものだ)
もし、自分の周囲に昇給のことをしょっちゅう考えているものがいたら、彼はてんで昇給など問題にしなかったところである。
豹一はまる一年半、性こりもなく昇給を期待していたのである。(こんどこそ、昇給しなければここを廃めるんだぞ)そう言い聴かせてから、半年もうかうか経ってしまった。もはや豹一は、完膚なきまでに自分を軽蔑していた。余り毎日退屈だったので、彼は「本邦畳史」の記事蒐集に取り掛った。それを連載すれば、たとえ社長と雖も、自分を認めてくれるだろうなどと、ひそかにそれで以て昇給を期待することだけは、さすがに許さなかったが。
自分自身から見離されてしまったので、彼は全く古手拭のような無気力な、ひっそりした人間になってしまった。しかし、二十歳の彼にはしばしば自分を軽蔑するだけの若さは未だ残っていた。それがせめてもであった。そして、ある日、彼は遂にその若さに物を言わせてしまった。
その日、発送日だった。だから、彼はいつもより機嫌が悪かった。が、ただ一つ、彼がかなり苦心して纒めあげた「本邦畳史」の第一回目が掲載されているのを見るという楽みがあった。ところが、刷り上って来たのを見ると、それがどこにも載っていなかった。
「どうして載せてくれないんですか?」と、社長に抗議するのも恥しい気持で、豹一は赧くなって、そわそわと新聞から眼を離した。
(没にされたのだろうか、それとも次号廻しだろうか?)そんなことをしょんぼり考えているところへ、印刷所から、別刷りだと言って、百部ほど刷り上りを持って来た。見ると、「本邦畳史」が相当大きな見出しで載っていた。
「別刷りというのもあるんですね」と豹一はそれとなく社長に訊いてみた。
「へえ、おまっせ」社長はアルミの金盥にいれた糊をしきりにこねまわしながら、ぼそんとした声で言い、そして、「こら内緒やが――」最近当局の新聞取締がきびしくなり、むやみに広告の段数をふやすことが出来なくなったので、検閲係や官庁へ提出用の分として、広告の段数を減らし、記事の段数をふやした別刷りの新聞をつくって置くのだと、社長は説明した。
「君、御苦労やけど、別刷りの新聞二部、府庁の特高課へもって行ってんか」
「今直ぐですか」反射的にそう言ったが、むろん怒ったような声だった。
「ああ、今直ぐ行ってんか」
「いやです!」大袈裟に言えば、一年半こらえにこらえて来ただけの声の響きはあった。豹一自身、われながら満足出来る声だった。少くとも辞職の瞬間に相応わしいような声だと、思った。自分の記事が別刷りの埋草だけに使われたということへの怒りが、この気持に拍車を掛けた。社長の痩せた貧相な顔を見ると、さすがに気の毒な気もしたが、しか
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