すっかり悄気てしまい、自尊心の坐りどころを失っていた時だった。道を歩いていても、すれ違う人のすべてが自分を嘲笑しているように思えた。質屋の暖簾が見えるところまで来ると誰か見てへんやろかと、もう警戒の眼を光らせた。
(お前の母親はお前の学資を苦面するために、この暖簾をくぐったのだぞ)そう自分に言い聴かせて、はじめて暖簾をくぐることが出来た。それでも質屋の子供かなんぞのような顔をつくろってはいった。質屋の丁稚は、
「野瀬はんとこがすばしこい商売をやらはんので、わての方は上ったりですわ。わてらは流して貰わな商売にならへんのに、あんたとこが流れをくい止めはんねん。まるで堤みたいや」とこんなことを早熟た口で言った。なお、
「あんたところはぼろいことしはって、良家《ええし》やのに、坊《ぼ》ん坊《ぼ》んがこんな使いせんでもよろしおまっしゃろ」
 豹一はむっと腹を立てた。ただ、丁稚が主に安二郎の悪口を言ってみるのだという理由で、僅に食って掛るのを思い止った。蔵から品物が出されて来るのを待っている間、ちらとそこの娘が顔を出し、丁稚を叱りつけるような物の言い方をして、尻を振りながらすっとはいって行った。豹一はキラキラ光る眼でその背中を見送った。品物を用意してきた風呂敷に包み、
「胸に一物、背中に荷物やな」と、丁稚に言われて、帰る道は風呂敷包みをもっているだけ、往く道より辛かった。(胸に一物やぞ!)と、豹一は心の中で叫び、質屋の娘の顔をちらと頭に描いた。
(あの娘は俺をからかう為にのこのこ顔を出しやがったんだ。なるほど中学生の質屋通いは見物だろう)
 奥へはいって行く時、兵児帯の結び目が嘲笑的にぽこぽこ揺れていたのを想い出した。(なんて歩き方だろう? 紀代子はあんな不細工な歩き方をしなかった)ひょんなところで、豹一は紀代子のことを想い出した。すると自尊心の傷がチクチク痛んで来るのだった。(あの娘を獲得する必要がある)思わずそう決心した。それよりほかに、今のこの情けない心の状態を救う手がないと思った。しかし、豹一はそんな莫迦げた決心を実行に移さずに済ますことが出来た。もっと気の利いた方法で自尊心を満足さすに足ることが起って来たからである。
 ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
「蛸を釣られる」のだろうと、度胸を決めて、しかしさすがに蒼い顔をして行くと、校長は、
「君に相談があるのや。掛け給え」と言った。風向きが違うぞと豹一は思い、もし風紀係にでもなれという相談だったら断ろうという覚悟を椅子にどっかりと乗せていると、
「君高等学校へ行く気はないか」
 と意外なことを訊かれた。つい最近も教室で上級学校志望の調査表を配られた。四年生になると、もう卒業後の志望を決めて置く必要があるのだった[#「あるのだった」は底本では「あるのだつた」]。彼は上級学校へ行く希望はない旨、書き入れて置いた。中学校を卒業させてくれるだけで精一杯の母親のことを考えると、行きたくても行けぬところだったのである。
「はあ、べつに……」と答えた。
「なぜかね?」校長が訊いたが、豹一は答えられなかった。自分の境遇を説明出来なかった。
「なんででも、行きたいことないんです」
「そりゃ惜しいね」と校長は言い、「実は……」と説明したのはこうだった。ある篤志家があって、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。無論、条件がある。品行方正の秀才で四年から高等学校の試験に合格した者に限る。それも入学試験のむずかしい一高と二高と三高だけに限り、合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。そんな条件に適いそうな生徒があったら推薦してくれと、府下の中学校へ申込んで来た。その候補の一人に豹一が選ばれたのである。
(すると、俺は貧乏人の子だと太鼓判を押されたわけだな)と豹一は思った。どうして校長がそれを知っているのだろうと考えて、思い当るところがあった。
(俺が授業料滞納の選手権保持者だということを知っているんだな)豹一はみるみる赧くなり、逃げ出したい位の恥しさだった。と同時にむっとした。(俺はそんな施しは御免だ! 四年から一高か三高へはいれた秀才に限るだなんて、まるで良種の犬か競走馬を飼うつもりでいやがる)
 豹一は腹を立てたが、しかしそんな候補に選ばれたことは少くとも成績優秀だと校長に認められたことになるのだと、些か慰まるものがあった。そんな豹一の心にまるで拍車を掛けるように、校長は、
「君が行きたくないということは、実に惜しいことだ。他にも候補者はいるけれど、自校《うち》では四年から一高か三高へ大丈夫はいれるのは君ぐらいだからな」と言った。豹一の自尊心は他愛もなく満足された。思わず微笑が泛んで来るぐらいだった。が、豹一は周章てて渋い顔になると、
「候補者は誰と誰ですか?」と訊いた。

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