うか、と多鶴子は思った。が、瞬間、豹一の痩せた頬が、眼を痛く突いて来た。
 すると、もう彼女はそれが口に出せなかった。そんな言葉を想いついただけでも、なんだか気の毒になって来た。(おや、いけない!)多鶴子は思わず心の中で叫んだ。(私はこの人に同情している)
 つまり、それでは、やはり豹一に心を惹かれてわざわざ会う気になったということになるのだ。
 彼女は周章てて豹一から眼を離した。その拍子に、(あッ、そうだ!)と、微笑した。
(大変なことを忘れていた。この人に頼むことがあったのだわ)
 尾行記のことで頼むために、わざわざ会うているのではなかったかと、彼女はまわりくどい径路を通ったあげく、やっとその結論に到達した。多鶴子はほっとして口をひらいた。
「あのう、じつはお願いがあるんですけれど……。きいていただけます? ……昨夜おっしゃってました尾行記のことですけど……」
 豹一はぎくりとした。
「……無理なお願いなんですけど、書かずに置いて下さいません?」ほかに弄すべき策も見当らなかったので、多鶴子はそのように真正面から頼んでみた。
 豹一は返事の仕様がなかった。いまそれを書いて来たばかしではないか。活字に組まれて、いま頃は輪転機に載せられた時分だろうと思うと、豹一は、
「ど、どうしてですか?」と、なにか胸のあたりが重いような声を出した。が、次の瞬間にはもう豹一は充分意地わるい口調になって、
「書かれちゃ困るんですか?」土門の話を想い出していた。
(書かれると人気に障わると、いうんだろう。この女はなによりも人気が大切なんだ。監督との問題でも、人気を出すための打算なんだ)
 その女のことを散々悪く書いてしまったあとでも、なおこんな風に頭のなかで鞭をふるっていたのは、ひとつには豹一は多鶴子に対して済まぬと思う自分の気弱さを、振い立たせるためでもあったろうが、じつは、丁度そこへアイスクリームが運ばれて来たからであった。
「困るっていうわけでも……」ありませんと、多鶴子がいい掛けるのを、豹一は畳み掛けて行って、
「人気にかかわるっておっしゃるんでしょう!」
 多鶴子はふと眼を落した。
「人気ですって……?」語尾が落ちた。
「違いますか?」
「違います!」いきなり、多鶴子の眼の輝きが睫毛を押しあげた。「人気、人気って皆様がおっしゃいますが、……」多鶴子の声は朗読口調になった。
「……私そんなに自分の人気のことばかし考えているのでしょうか。……たとえば、矢野さんのことにしろ、皆様は、村口は良い役をつけてもらいたさに、矢野に貞操を与えたなんて、ひどいことをおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか。人気のために、自分の人気のために、自分を殺したのでしょうか? ……違いますわ。なるほど、矢野さんは私の恩人です。しかし恋愛とそれとは違います。いくら恩人だからって、矢野さんが好きでなければ、私あんな風なお交際はしませんわ。私、ただ、矢野さんが好きだっただけです。それだけです。だからこそ、あのこと[#「あのこと」に傍点]にしろ、矢野さんがそうしろとおっしゃったときその通りにしたのです。好きな人の言うことだから、そうしたのです。それを皆様は、なにもかも人気のためだと、お片づけになるのですわ。色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」
 そう言って、彼女はふっと「寂しい微笑」を泛べた。途端に、彼女はその微笑が意識的なものであると気づいて、いやになった。習慣というものは怖しいものだと、思った。彼女は無意識にクローズ・アップの表情をとっていたのである。
(しかし、私の言ってることは嘘じゃない)彼女はそう思った。(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
 咄嗟にそう信ずることが出来た。永い間、自分に言いきかせて来たから、もはや、それ以外の考え方が出来なかったのだ。いわば、彼女の固着観念になっているのであった。
 しかし、この固着観念を人前ではっきり述べるのは、いまがはじめてだった。彼女はこんなところでそれを言いたくないと、思った。「世間の眼」へのはじめての抗議を、こんな喫茶店のなかでしたくなかった。ことに相手は、新聞記者という点を勘定にいれるにしても、ともかく子供すぎるほど若い男なのだ。
 しかし、多鶴子は豹一がびっくりした表情で熱心にきいてくれているらしいのを見て、いくらか張りあいがあると思った。たしかに豹一は、多鶴子の言葉に心を惹かれていた。自分の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。(土門なんかの言葉があてになるもんか!)と思った。
 多鶴子は人なかだという点を考慮して、声を低めねばならなかった。感情がたかまっているのに、声を低めねばならないということは、自分の悲しさを一層深め
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