どうぞ!」多鶴子に言われて、豹一は、赧くなりながら、向いあった席に腰を下した。
テーブルに両手をついた時、豹一ははっとした。掌に黒い墨のようなものがついていたのだ。はっと手をひっ込めた拍子に、(鉛筆の粉で汚れたのだな)と、思った。つまり、夢中になって多鶴子の尾行記を書いた証拠なのだ。豹一は顔もようあげず、痛い気持でしきりに掌をズボンの膝でこすっていた。
何を飲むかときかれたので、豹一は珈琲だと答えた。多鶴子はボーイを呼んで、
「お珈琲にお菓子、……それから、私はクリーム、……クリームはなに……?」
「ヴァニラだけでございます」
ボーイが言った。
「それでいいわ」注文し終ると、多鶴子ははじめてゆっくりと豹一を観察した。
そして驚いた。はいって来た時の、おかしいほど真赤になったとはてんでちがって、いま豹一はいくらか蒼ざめた顔にむっとした表情をうかべていた。じろりと多鶴子を見あげた。その眼の色に、かすかな敵愾心さえあった。(なんという表情の変り易い男だろう)多鶴子はあきれてしまった。
実は、なにごとにつけてもけちをつけたがる豹一の厄介な精神は、全く莫迦げたことだが、この時も多鶴子がアイスクリームを注文したことに憤慨していたのである。豹一に言わせると、寒中アイスクリームを食べるのは気障だというのである。ことに多鶴子のような若い女が人前で食べるのは気障だというのである。
学校時代ある夜おそく豹一は友人の赤井と野崎と連立って、京極裏のスター食堂へ行った。寒中のことで、ことに京都は底冷えがひどく、彼等はストーブの傍に椅子を寄せて陣取った。なにを食べようということになると、食べることにかけては全く意地汚い野崎が、いっぺんアイスクリームを食べてみたいな、去年の夏から食べたことあらへんから、と言い出した。すると、赤井がすかさず、うん、おれもそれ食べたいと、思ってたんだと、応じた。毛利、君はときかれたので、豹一は異を樹てるというより、極く普通のことだが、珈琲を注文し、そして、彼等が肩のあたりをぶるぶるふるわせながら、アイスクリームを噛じるようにのみこんでいるのを、にやにや笑って見ていた。すると、赤井は、寒中のアイスクリームの味を知らんとは、お前田舎者だぞと歯を鳴らしながらいった。
そのことを豹一は想い出していたのだ。しかし、その時田舎者だといわれたが、豹一はそんなに腹が立たなかった。なぜなら、赤井や野崎のそんな気障っぽさはまるで腹の中ではしゃぎまわっているような、気障っぽさであったから……いうならば、多鶴子のそれのようにつんと乙にすまし込んだ気障っぽさではなかったからである。
そんな風にけちをつけたがるところ、つまり豹一は量見がせまいというのではなかろうか。たぶん、それに違いはあるまい。もともとの性質がそうなのだから致方のないところだが、ひとつには、彼には物ごとに対するはっきりした意見、つまり人生観だとか思想だとかいうようなものが欠けていたせいでもある。だから、このようにこせこせした意見だけを小出ししているわけだった。衝動的にしか物ごとが考えられず、従って行動出来ず、自尊心の振幅が彼を動かしていたわけであった。
多鶴子はそんな豹一の表情を見ると、いきなり昨夜の彼の無礼を想い出した。そして、わざわざ彼を電話で呼び出す気になったわけがはっきりとして来た。
全く、彼女はなんのために再び豹一に会う気になったのか、はっきりわからなかったのである。むろん、昨夜あんな風にされたままでは済まぬという気持はひそかにあった。が、それだけの理由で、彼に会うとは、余りにはしたないことではなかろうか。たかが相手はとるに足らぬ駈出し記者ではないか。そう思うと、電話を掛けたことを軽はずみだと後悔する気持が強かった。ぽっと顔を赧らめてはいって来た豹一を見ると、ますます気持が強くなった。つまり、豹一に対してなんらかの意味で惹きつけられて了うのが許しがたいほど恥しく思えたのである。
だから、いま豹一がそんな可愛げのない表情を見せてくれることは、彼女にとっては、むしろサバサバするようなものであった。
(そうだ! 私は昨夜のこの男の無礼に黙っておれず、わざわざ会うことにしたのだ!)そう意味がつくと、はしたないとか、軽はずみという後悔がなくなった。彼女は睫毛の長い眼をじっと豹一に注いだ。そして、どんな文句を浴びせ掛けてやろうかと、思案した。
ふと彼女は、女らしい敏感さで、豹一のオーバーの疲れに眼がついた。まるで可哀相なほど皺がよっている。おまけに、既製品だと見えて、身に合わずぶくぶくなのだ。なお、仔細に見れば、洋服は冬物ではないらしい。ネクタイだって、みじめなものだった。昨夜と同じ柄だが昨夜より皺が多い。
「そのオーバーどなたのお見立て……?」いきなりそう訊いてやろ
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