ていると思い、思わず瞳がうるんでいた。それを見ると、豹一はますます心を動かされた。極端に走りやすい豹一は、いきなり起ち上った。
「そうですか。わかりました。しかし、尾行記は書いてしまったんです。間に合うかどうかわかりませんが、とにかく社へ電話して発表を見合せてもらうことにします」
 そう言うと、豹一は、そんなことが許されるかどうかも思ってみずに、急いで電話を借りに行った。

      七

 編輯長は豹一の原稿の字の下手糞で、乱暴なのに辟易したが、とにかくざっと眼を通してみた。そして、眼を通してみてよかったと、思った。
(読まんと、社会部長《あのおとこ》のところへ廻したりしたら、えらいこっちゃ。社会部長のこっちゃさかい、あとさきも見んとそのまま印刷に廻しよるやろ)
 村口多鶴子の悪口を書いているばかりでなく、「オリンピア」の宣伝部長まで醜行をあばかれているのだった。発表すれば、「オリンピア」から抗議は当然来るべき原稿なのだった。それだけに、特種としての値打は充分あるわけだが、それでは営業部の方が困るだろう。編輯部の立場としては、なるべくなら採用したいところだが、しかし、やはり営業部との摩擦は避けたかった。ひとつには、情にもろい編輯長は、村口多鶴子をかばってやりたかった。
 編輯長は豹一の原稿を没にした。が、豹一には些か可哀相な気がした。偶然に恵まれたというものの、それだけの材料をスクープするのは、余程活躍したにちがいないのだ。
(やっぱりあいつは見どころがあった。寒いのに夜なかまでよう活躍しよった。没になったと知ったら、悲観しよるやろ)そう思っているところへ、豹一から電話が掛って来た。
「僕、毛利です」
 編輯長は相手が誰か咄嗟にわからなかった。若い声だから、たいした人間からではないのだろうと、
「毛利て誰やねん?」
「はあ。あの社会部見習の毛利豹一です」
「なんや、君か? なんぞ用か?」
「はあ、あのう、さっきの原稿もう印刷に廻ってますか?」
「まだやぜ。それがどないしてん?」
「まだですか。そうですか。そんなら、大変勝手ですけど、あれを没にして下さいませんか?」
「なんでや?」
「はあ。あのう、ちょっと事情がありまして……」
「そうか。そんなら、君のいう通りにしとくわ」編輯長は微笑した。「そいで、いまどこにいるねん?」
「はあ。心斎橋の不二屋に……」
「誰といるねん? 恋人《スーチャン》とか?」
 編輯長は思いがけぬ豹一の申出でにすっかり気を良くして、そんな冗談をいい、
「それじゃ、くれぐれもお願いいたします」
 という豹一の汗のたれるような言葉を耳に残しながら、電話を切った。途端に、編輯長は、
(あいつ村口多鶴子に頼まれよったんやろ。いま会うとるのやろ)
 若い部下のはなやかな活動を想像して、全く上機嫌だった。丁度その時土門が前借の印を求めに来たので、盲印を押してやるぐらいだった。
 電話を掛け終ると、豹一は多鶴子のところへ戻って来て、記事の発表を見合せることにした旨言った。
「ありがとう。折角お骨折りなすったのに……」
 多鶴子はそう言いながら、ふと、(結局この人は昨夜私を救うために、骨を折ってくれたということになるのだわ)と、思った。多鶴子はいきなり起ち上ると、
「ここを出ません?」朗かな声で、一緒に歩きましょうという気持を含めて、言った。
 なによりも多鶴子は、豹一が自分の言葉に感動してくれたことが嬉しかった。そして、すぐ希望以上の処置をとってくれた豹一が、多鶴子の持前の虚栄の眼からは、まるで騎士のように見えるのだった。
 昨夜彼女の自尊心をかなり傷つけた筈の、豹一の行動も、いまにして思えば、夜更という点にひどくこだわった好ましい内気さから出たものと、考えられるのだった。そして、帰りぎわの風のような素早さは、騎士のように颯爽たるものがあったと、このかつての女優は思った。
 心斎橋の雑閙を避けて、御堂筋の並木道を大丸の方へ、肩を並べて歩いて行った。柔い日射しが二人の顔にまともに降り注いだ。寝不足の豹一の眼にはその日射しが眩しかった。彼は眉の附根を寄せていた。多鶴子はライトの強烈な刺戟に馴らされていたから、そんなことはなく、豹一のその表情を見て、眉をひそめていると感違いした。つまり、不機嫌だと思ったのである。
 これは彼女の虚栄から言っても、あり得べからざることだった。彼女は豹一の心を惹きつけるべく、本能的に努力した。心斎橋まで来ると、多鶴子は、
「引きかえしましょう」と、言い、なお、「私と歩くのお嫌い?」とまで言う始末だった。
 誰が考えても、豹一は多鶴子から良い待遇をされていることになる。並んで歩いているだけでも、羨望に価するのだ。さすがに豹一はすれ違いざまにしげしげと見て行くひとびとの眼のなかに、それを読んだ。
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