小綺麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。
「ここですの。私の家……」そう言って、多鶴子はクッションから腰を浮かせながら、「どうもありがとうございました」
 豹一に礼を述べかけた拍子に、(そうだ! この人を家へ案内しよう)だしぬけに思いついた。
 謝礼の意味からいっても、その必要はあるわけだと思った。わざわざ送ってくれた人を、帰らすのは失礼にあたると、多鶴子は自分に言いきかせたが、じつはこのまま帰らすわけにはいかぬわけがほかにあった。今夜新聞にかかぬように頼むということが残っていたのだ。
「御迷惑でしょうが、寄って行って下さいません? 夜分のことでなんにもおもてなし出来ませんけれど……」多鶴子はそう言った。
 そんなことを言われると夢にも思っていなかったから、豹一は不意打をくらった気持でぱっと赧くなり、
「いや、ここで失礼します」正直な返事だった。じつは豹一はここまで同乗して来るのさえも、窮屈で仕方がなかったのである。この上、家のなかまではいって息のつまるような気持を味わせられるのは真平だと思ったのだ。運転手が羨んだ車中も、豹一には長い道中だった。やっと車が停って、折角やれやれと思ったところではないか。全く運転手に金を払うということさえなかったら、途中でも逃げ出したい気持だったのだ。
 ところが、その金は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡してしまった。運転手はじつは「金はいくらでも出す」といった豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。
(男ならこんなに呉れるまい)運転手は金を貰った以上、豹一だけを乗せてもう一度走るのは損だと思った。二重取りもさせないほどの多額の金だったのである。それに、二重取りしたくとも、出すまい。「さっき女に貰ったじゃないか」と着いた時いわれるにきまっている。そう思ったから、運転手は、豹一がなんといっても走らなかった。
「もうガソリンが切れてまんねん。どこまででっか?」
「下寺町だ」
「入庫の方角と違いますわ。あきまへん、降りとくなはれ」結局、豹一は降りざるを得なかった。
 車は後戻りすべく、夜更けの空気のなかに爆音を響かせて、不格好に迂回しはじめた。ぽかんと突っ立っていた豹一は周章てて飛びのいた。自然、豹一は多鶴子の家の玄関に近寄った勘定になった。
「どうぞ!」多鶴子が言った。
 豹一は多鶴子の言うままになるより仕方なかった。そんな夜更けの住宅地では、もう帰る車を拾うのも容易ではないと諦めた。しかし、その夜更けという点で、豹一もこだわっていた。「夜分のことで……」と、さっき多鶴子も言った筈だった。が、豹一は、僅かに仕事という点を自分への口実にすることが出来た。ひょんなところで新聞記者であることを自覚するところを見れば、まだまだ豹一は新聞記者ではなかった。
 自動車の音でそれと気づいたらしく、玄関に灯がつけられた。
「只今!」多鶴子が声をかけると、
「お帰り遊ばせ」なかから女中の声がして、戸をひらいた。
「どうぞ! お先に……」
 言われて、豹一が玄関にはいると、女中が頭を下げていた。そろえて下しているその手を見て、豹一はおやっと思った。痛々しく赤ぎれて、ところどころ血がにじんでいるとも見えた。豹一はだしぬけに母親のことを想い出した。胸がしめつけられる思いだった。
 多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると、階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。
「お帰り」母親は長火鉢の前に背中を猫背にまるめて、ちょこんと坐っていた。
「未だ起きていらしたの?」
「いや。いま寝ようと思っていたところだよ……」母親はなにか狼狽して、「……炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って……」
 そんな風に弁解する母親が、多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。昨夜も多鶴子が帰るまで寝ようとしなかった。長火鉢の前でじっと坐ったまま、欠伸ひとつせず待っていてくれたのかと、多鶴子はそんな母親の心配がむしろ悲しく心配しないでも良い、大丈夫だ、さきに寝ていてくれと、あれほど言ったのである。ところが、やはり今夜も起きて待っていた。そして心配の余り寝られなかったという気持をごまかすために、炬燵なんかひきあいに出しているのだ。以前はこんな風ではなかった。撮影の都合で帰宅がおくれるなど珍らしくなく、思いがけぬ徹夜撮影で家をあけることさえあったのだが、わざわざ電話で断るまでもなく、母親は安心して寝ていたのである。
 女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。ダンサーになりたての頃、一度無断で家をあけたことがあった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらったのだが、夜なかに公衆電話が掛って来た。母親から掛けて来たのだっ
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