た。事情がそれとわかって、母親はほっとしたが、それでも余程周章てたと見えて、娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった、――心配したのはあとにもさきにもその時だけで、以後帰宅がおそくなっても安心して居れたのである。信用していたのだ。
 それが、例の事件があってからは、もう娘の身辺が心配で心配でたまらなくなった。ことにオリンピアへ出る昨日今日がそうだった。事件が一段落すんで、やれやれと骨身を削られて細った肩をなでたのも束の間だ。もう男たちの遊び場所へ顔出ししなければならぬようになってしまったのだ。二度とあんな間違いは起してくれるなと、「只今」という多鶴子の声をきくまでは、長火鉢の傍も離れられないのだった。
 そんな風に心配されているのかと思うと、多鶴子はなにかたまらなかった。しかもそうして心配している顔をかくそうとする母親の気持がわかるだけに、一層たまらなかった。
「莫迦ね。早く寝みなさいな」しかし、母親はすぐには起とうとしなかった。なにかおろおろとして多鶴子の顔色をうかがっているのだった。
 母親は今夜誰か男の客があることを、敏感に知っていた。思わず二階の方へ聴耳が立って行くのだった。無理もなかった。こんな夜更けに男の客なぞここ二年ほど絶えてなかったのである。二年前にはあった。いきなり夜おそく訪ねて来て、多鶴子に紹介された。それが監督の矢野だった。いつも多鶴子がお世話になりましてと、ぺこぺこ頭を下げると、ああ、ああと鷹揚にうなずいていたが、その鷹揚さは多鶴子を人気女優に仕上げてやった監督としてのそれよりも、既に多鶴子の心身を自由にしてしまっているという強味に裏づけされていた。残酷な尊大さで、矢野は、「あんたも良い娘を産みなすったな」と言っていたが、その晩黙って泊って行った。それからもちょくちょく来た。きけば矢野には妻子もあるということで、その人達にも済まぬことだとひそびそと多鶴子に迫っていたが、多鶴子は、なにいいのよ。そう言っている内に、ふと多鶴子の体の異状に気がついた。もはや、ものも言えず、悲しい眼付きで娘を見ていたが、やがてそれが思い過しだったと、ほっとした途端に、なんとしたことか、娘が警察へ呼ばれた。あとでその理由がわかり、そんなことをさせる位なら、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。はじめて来たときのあの矢野の尊大な態度がいつまでも想い出されるのだった。いまも母親はその晩のことを想い出し、ふっと不安な眼を二階へ向けた。が、
「お客さんは誰……?」とはきけなかった。
 そんな母親の気持を多鶴子は敏感に察した。
「お客さんがあるのよ……」自分の方から言い出して、
「新聞社の方よ。私の尾行記を書きたいんですって。うるさいのね。新聞記者って……。だけど、行かないとわるいから、ちょっと顔出しして来るわ」
 そして、先に寝んで頂戴と、次の間にはいって、イヴニングを和服に着替えながら、多鶴子はそんな風に言ったことを、若い新聞記者にはちょっと済まなく思った。そのため彼女は美しい女特有の本能から、念入りに化粧をしなおした。
「どうもお待たせしました。――先ほどはありがとうございました」
 そして、向い合って腰を下すと、豹一が出された珈琲に手をつけていないのに素早く気がついて、
「さあ、どうぞ。冷めないうちに……」しかし、待たされている間に、すっかり冷たくなっているのに気がつき、
「あら、もう冷たくなっちゃいましたね。御免なさい」尻あがりの口調で言って、女中を呼ぶためにベルを押した。全く申分ないほど、愛相がよかったのである。
 若い女中は一目見た途端に、豹一を好いてしまった。映画女優のところへ女中に雇われるだけあって、彼女は非常に映画趣味があったから、ぶくぶくのオーバーを不恰好に身につけた豹一を見ると夜ふけのせいもあって、此の美少年は「男装の麗人」ではなかろうかと思ったほどである。全くだしぬけにはしたない恋を感じてしまった女中は、可哀相におどおどして応接間へ現れた。珈琲茶碗を差出すのがたまらなく恥しかった。汚い手を見せねばならぬからであった。
 ところが、もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとすれば、それは彼女が大急ぎでべたべたにぬりつけた鼻の頭ではなくて、彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかも知れない。豹一にとっては、それだけ切りはなして見ただけでも、その手は胸をうつに充分だった。母親の手を連想するからであった。ところが、豹一はその手を豪華な装飾に輝いている応接間で見た。豹一は一層胸を打たれて、弥生座の舞台で踊っていた東銀子の赤い足を不意に思い出した。豹一は思わず涙が落ちそうになったのを、周章ててその部屋に対
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