頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。カーブした拍子に、多鶴子はちらと眼をあげて走っている方角をたしかめたが、すぐまたコンパクトを覗いた。つまり、そうして居れば、佐古の相手にならなくても済むのである。車は電車通に添うて日本橋筋一丁目の方角へ折れて行った。
やがて車は日本橋筋一丁目の交叉点を霞町の方へ折れて行った。豹一の車もあとに続いていた。
多鶴子の車が霞町から天王寺公園横の坂を登って行くと、佐古は、
「寒い、寒い、隙間風がはいって来よる」と、言い出した。そして、坂を登る動揺を防ぐために、半身乗り出して運転台の方へ寄り掛っていたが、いきなり、「そこを閉めてくれ!」といいながら、運転台の横の窓ガラスを閉める真似をした。真似をしたというのはじつははじめから閉っていたからである。その動作の咄嗟に、佐古は五円紙幣を運転手の膝の上へ落し、何やら囁いた。
多鶴子はおやと思った。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。迂回するためかと思ったが、車はそのまま真っ直ぐ天王寺の方へ走って行った。そのかすかなタイヤの軋みを多鶴子ははっと不気味にききながら、
「方角がちがってよ。運転手さん! 引きかえして頂戴!」思わず叫んだ。
しかし、佐古の意を察している運転手は、よくあることやと苦笑しながら、それに耳を藉そうとはしなかった。
「佐古さん!」多鶴子は佐古の顔をきっとにらんだ。「車を引きかえして頂戴!」
「そら無茶でっせ。わてはなにも運転手さんやあらへん。引きかえそうにも、わてが運転するわけにいきまへんがな」済ましこんでそう言うと、あははと、多鶴子の白い眼へ笑いをかぶせた。多鶴子は叫び出しそうになったが、さすがにかつての人気女優だった。やっとこらえて、十分用心深い表情のまま、じっと車の方向を見つめていた。
阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停った。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。古びているが、映画のセットにこれとそっくりの家が出て来る。
運転手が出て来るまで、佐古はこの男に似合わぬ神経質な手つきで、煙草を吸っていた。電機工の時分から憧れていた此の美しい女優を自由にすることが出来るといううずくような期待から、さすがにぶるぶるふるえが来たのである。多鶴子は佐古の隙をうかがって逃げるという、映画的な場面を頭に描いた。
運転手は直ぐ出て来た。そして、佐古に眼くばせして、扉をあけた。佐古は先に降りて、「どうぞ」と、莫迦ていねいに運転手の傍に立って、多鶴子を促した。
じっとクッションの隅に身をすくめていることは、多鶴子の矜恃が許さなかった。多鶴子は黙ってうなずき、車の外へチョコレートの靴下に包まれたすんなりした足を伸ばした。佐古は身ぶるいした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなんだか大それたことをしているような気がするほどだった。
その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて、辷りこんで来た。そして停った。
「あ、いかん、停めたらいかん!」豹一は思わず叫んでいたが、頓間な運転手は多鶴子の車を掴えることばかしに気を取られていたので、豹一がそう叫んだ時、既にまるで当然のようにブレーキを掛けてしまっていた。
(まずいところで停めやがった!)尾行して来たのをわざわざ知らせるようなものではないかと、豹一はいきなりオーバーの襟を立てて、顔をかくそうとしたが、多鶴子は素早くそれを見つけて、「あ!」かすかに叫び声をあげた。
(あ、この人は……)インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。(あの新聞記者だ!)咄嗟に想い出すと、多鶴子はなんのために豹一がそんなところへ現われたかを考える余裕もなく、突然身をひるがえすと、豹一の車へ駆け寄った。
「乗せて下さらない?」そして、返辞も待たずに、豹一の傍へ転り込むように飛び乗ってしまった。
柔い腰の感触がいきなり豹一の体を敲いた。思わず身を避けた拍子に、強い女の香がぷんと鼻に来た。豹一は一層周章ててしまって、咄嗟に口も利けなかった。
「こら、待て! 待ちくさらんか!」驚いた佐古がそんな芝居掛った科白を、地金の柄のわるい調子で言った時、豹一の車は多鶴子を乗せたまま、再び深夜の街へ走り出していた。
豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。彼は豹一の顔から察して豹一を多鶴子の情人だと、簡単に決めていたのである。だから、命じられなくても、充分、心得ていたわけだ。
五
「あ、そこで停めて頂戴」
前へ
次へ
全84ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング