をそそったものだ。むろん女優に限らなかったろう。ただ、偶然彼女のプロマイドを拾ったというだけの話だった。が、ポケットから出して、つくづく見れば良い女だと思った。こんな女をとひそかに夢を描き、悩ましく思いつめるようになった。トーキーで声をきいて一層心を惹きつけられた。無理にそんな声を出しているとしか思えぬ、しわがれた悩ましい声は、なにもかも知りつくしたような円熟した女の底の深さを囁いて、佐古の好奇心を刺戟した。
だから、彼女を招聘するために、自分でも不思議なほど熱心になれたのだった。経営者の眼の色に彼女への野心を見て、狼狽したのも無理はなかった。なんのことはない、経営者の好奇心を満足さすため努力したようなものだと、佐古はがっかりしてしまった。
売り上げの額がいつもの三倍にもなった大成功ながら、佐古は昨夜欝々としてたのしまなかった。(おれが儲けるわけではあらへん)全部経営者のふところにはいる金だと思えば、阿呆らしかった。おまけに、村口多鶴子も経営者の女になってしまうのだ。いまいましかった。
他の人は知らず、経営者にだけは佐古も頭が上らなかった。張り合う気などとても持てなかった。可哀相に佐古は昨夜一晩中無気力な嫉妬に苦しんで、眠れなかったぐらいであった。が、今夜の佐古は昨夜よりいくらか変っていた。村口多鶴子を諦めるのは未だ早いと思ったのだ。諦めるわけもなかった。経営者と張りあう気持が少しだが生れて来たのだった。いわば、経営者へのひそかな反抗だった。この反抗心は今日店へ来て多鶴子の姿を一眼見た途端、いきなりふくれあがったのだ。
(経営者も糞もあるもんか? 馘首にするならしやがれ。ここを追い出されたっておれは水商売仲間ではつぶしがきく男や。それに、あの女をおれのものにしたら、あの女でおれは食って行けるのやないか)そう思うと、もう佐古の足は自然に動き出して、多鶴子のいる客席の方へ歩き出した。「いらっしゃいませ」
佐古はまず客の方へ挨拶して置いてから、揉手の手をほどき、多鶴子の肩をとんと敲いて、「ちょっと」柱のかげへ呼んだ。
「……? ……」固い表情で多鶴子は寄って来た。強い香水の匂が佐古の鼻の穴の毛をふるわせた。すっかり興奮してしまった佐古はわれを忘れて、ぐっと多鶴子の体へもたれかかるようにしながら、多鶴子が擽ったくて我慢が出来ぬほど耳近く口を寄せて、
「あんたに注意してかんならんことがあるのや。気になってたのや。あのな、おやじを警戒しなはれや。あんたのため思ていうたげてんねんやさかい、よう心得ときなさい」
「ありがとう」多鶴子はひらりと身をひるがえして、元の席へ戻った。
多鶴子には、佐古が言った「おやじ」とは誰のことか咄嗟にわからなかった。が、わかろうともしなかった。警戒すべきは「おやじ」だけではない。どの男だってそうだ。昨夜一晩でうんざりするほど経験させられたのだ。わざわざ呼んでそのような忠告を親切めかす佐古だって警戒すべき一人だと、いえばいえないこともないのだった。そういうことを言われるのも、役目のひとつかと、多鶴子は悲しい心を押えて極めて事務的にきいたまでであった。
しかし、佐古は多鶴子の「ありがとう」という言葉にすっかりのぼせあがっていた。(あの女はおれに感謝してくれとる。あの女は支配人のおれに頼ってくれとる)そう思って、にやにやしていた。佐古のような抜目のない人間でも、いったん女に惚れるとからきしだらしがなくなっていたのである。(ざまあ見てけつかれ!)佐古は心の中でひそかに経営者に向って舌を出した。丁度その時、ボーイがやって来て新聞記者の来訪を伝えた。
「新聞記者?」佐古は眉をひそめた。
新聞記者連には昨日招待状を出し、随分と饗応してやったのだ。おかげで今日の朝刊にはデカデカと村口多鶴子の記事が写真入りだった。宣伝にはなったと、佐古はその効果を一応は喜んだ。しかし、今の佐古としてはなにか人眼のつかないところへ多鶴子をそっとして置きたい気持であった。騒ぎ立てられるのが怖いのだ。多鶴子を張りに来る客はいまはどいつもこいつも恋敵なのだ。もう新聞記者には用はないのだ。佐古は舌打ちした。
「どこの新聞記者や?」そう言いながら、ボーイのもって来た名刺を見た。
東洋新報記者 毛利豹一
毛利豹一という名刺には全然記憶はなかったが、東洋新報という四字を見ると、佐古には思い出されるものがあった。今朝、佐古は多鶴子の記事を読むために、一つ残らず大阪の新聞へ眼を通した。一つだけ、全然多鶴子のことを書いていない新聞があった。それが毎週「オリンピア」の広告を出してやっている東洋新報だと知ると、その時佐古はまだ多鶴子の宣伝に情熱をもっていたから、大いに憤慨して、早速東洋新報の広告部へ電話で抗議したのだった。
その怒りが今もなお佐古の心
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