言った。人生の無常がわかるとは、良いところがある。君はいくつだ?」
「二十歳です」豹一は噛みつくように言った。
「じゃ、僕と三十ちがいだ。僕は五十だ」
豹一はぷっと吹き出した。眼鏡を外した土門はどう見ても三十二、三にしか見えなかった。しかし、豹一の笑はすぐ止った。その時、一人の男が禿げあがった頭に雪をかぶって、飛び込んで来たが、その顔を見るなり、(文芸部の北山という男だな)と直感したからである。豹一は咄嗟に緊張した。この男が銀子に手をつけたのか、ともう笑えなかった。白い眼でじっとにらみつけた。が、男はそんな豹一には目もくれず土門と向いあった豹一の傍に腰を掛けると「違うぞ。誤解だ、誤解だ!」と、言った。土門はそれには答えず、
「おれがここにいるとよくわかったな」
「どうせ近くだとにらんだわい」
「電話のおれの声の大きさでわかったというんだろう。そこで、もっと大きな声をききに来たってわけか」土門はそう言って、でかい声で笑った。
豹一はそうして二人が笑っているありさまを不真面目なものに思い、じっと息をこらしていた。二人が笑うぶんだけ、豹一は怖い顔をしていたのである。土門はやがて笑い止むと、
「誤解とぬかしたな」と、言った。
「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことをいってくれるな」北山はいかにも悲しそうな声をだした。が、それはまるで座附作者が役者に科白をつけているとしかきこえなかった。
「本当か?」
「遺憾ながら本当だ」
「なるほど、遺憾ながらでっか。そんなら、誰だ?」
「わからん。わかろうとは思わん。わかると一層辛い。わかっているのは、銀子が失われたという、痛ましい事実だけなんだ」
「…………」
土門はわけのわからぬ唸り声を出したが、いきなり、
「握手しよう」と北山の手を握った。
「どうせ、下手人はもみあげの長いヴァレンチノだろう。わしはいっそお宅に下手人になってもらいたかった」
土門はわざとしんみりした声をだした。
「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」北山が言った。
「ざまあみろ」と、土門。
「ざまあみろ」と、北山。
「いい気持だ。焼酎禿のくせに踊子にうつつを抜かしやがって……。あはは……。恥しくねえのか?」
「うむ、いったな」
「どうだ、恥しくねえのか」
「うーむ」
「さあ、さあ、返答、返答!」
「さあ、それは……」
「返答、なんと? なんと?」
「恥しいのは、お互いさまだ。てめえの歳はいくつだと思ってやがるんだ」
「おお、よくきいてくれた。五十だ。隠しはせん」
「隠せるもんか?」
「なにをッ、こののんだくれ!」
「なにをッ、てめえには五円貸してあるぞ!」北山はそう言ったかと思うと、今までその存在を全く無視していた豹一の方を向いて、「君、こいつにいくら借りられた?」
豹一は彼等のふざけた問答にすっかり腹を立てていたから、それに返辞しなかった。土門が代って答えた。
「三円だ」そう言って、土門は、「紹介しよう」と、豹一を北山に紹介した。「毛利君だ。ほやほやの新聞記者。――こちらはピエロ・ガールスの座附作者であらせられる北山老人」
よろしくと豹一が頭を下げると、北山は瞬間別人のように改った表情をちょっと見せて、「これは、これは……。何ぶんともに……」と、古風な挨拶をした。
やがて三人はその喫茶店を出て、歌舞伎座の方へ歩いて行った。いつもはあくどい感じに赤黒く輝いている千日前通も、今夜は雪のせいか、しっとりとした薄明りに沈んでいた。人通もふしぎなくらいまばらだった。豹一は土門や北山のあとに随いて行きながら、顔にかかる雪を冷たいと思った。
第二章
一
東洋新報の編輯長はいつになく機嫌がわるかった。
この人には子供が十人もあり、最近も五十六の年でありながら妻君に双生児を生ませたということである。二代目春団治に似てひらめのように下ぶくれしたこの人の顔はとぼけた大阪弁が似合っていた。めったに社員を叱ったことがなく、たとえばタイピストなどが仕事の上でひどい失敗をやっても、「もうこんなへま[#「へま」に傍点]やりなや。なんしょ、わてはあんたに肩入れしてるのやよって、叱りとうても叱られへんがな」と、冗談口を敲くぐらいのものだった。誰からも親しまれ、この人の怒った顔を見たこともない社員の方が多かった。この人の顔から機嫌のわるい表情を想像するのは余程困難なのである。
今日もはじめのうちは、編輯長が機嫌がわるいなどとは誰も気がつかなかった。口をとがらして、しきりにぶつぶつ言いながら編輯長室のなかを歩きまわっているのが、硝子扉ごしに見られたが、まさかそれが怒りを爆発させないために、必死の努力をはらっているのだなどとは、気づかなかった。周章て者は、編輯長が口笛の練習をして
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