五十なら、おれも五十歳だ。年に不足はあるまい。ただ、おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。――なに? 下手人はほかにある? 白っぱくれるな! おい! ピエロ・ガールスに悪漢はちゃちな海賊船ほどいるがね、あのいたいけな、なよなよした、可憐な東銀子のような娘を食うのは、ピエロ・ガールスひろしといえど、貴様のような助平爺ひとりだ! 白っぱくれてもらわんときまいよ。おい! 泣きながら踊ってたぞ! 冷血漢め! 電話掛けたのは、貴様の老いぼれた顔を見たくないからだ。ありがたく思え! 顔を見れば、噛み殺してやる! いいか、覚悟しろ! ――なに? 会いたい? よし会ってやる。――おれが今どこに居るかぐらい探せばわかる。半時間以内におれの居所を探しだせ! それまでに貴様の汚ない顔を見せなけりゃ、弥生座を焼いてやる! ――左様、おれは坂崎出羽守だ! 千姫はおれが救い出す。貴様なんか指一本触れさすものか! けっ、けっ、けっ!」
 あたりに構わぬ大きな声で呶鳴っていたが、妙な笑い声を最後にやっと受話機を掛けると、土門は、「長い電話を掛けさせやがった」と言いながら、豹一の席へ戻って来た。店の女の子たちは、くすくす笑っていた。土門は、なにがおかしいと、にらみつけて置いて、珈琲を一息にぐっと飲みほし、「元気を出せ!」と、誰にともなく言った。豹一はそれを自分のことのようにきいて、はっとした。土門の電話口での話に、すっかり気が滅入っていたからである。
 しかし、なぜ気が滅入ったのであろうか。豹一は土門のようにとりとめないことを言う男の言葉は注意してきくまいと思っていたから、最初のうちはなにげなくきいていたのだが、土門の口から東銀子という名前が飛び出した途端に、どきんとした。そして、どうやら、東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議しているらしいとわかると、にわかに心が曇ったのである。どうせ、土門の言うことだから、出鱈目にちがいないだろうと、あわてて打ち消してみたが、しかし、先刻土門がそわそわと小屋を出てしまったのは、舞台の銀子を見てなにか察したのであろうと思えば思われたし、それに、ふざけた調子ではあったが、土門の電話での抗議ぶりには、いくらか本当めいたものがあるとも思われた。また、たとえそれが全く根もない事実に過ぎないと、無理に自分に言いきかせることが出来たとしても、いったんそれをきいてしまった以上、打ち消しようもないほど、心の曇りは深かった。つまりは、思い掛けぬ銀子への恋情だろうか。それが豹一にふしぎだった。
 二十歳の青年が舞台の上の踊子に恋情を感ずるというのは、あるいは極めてありふれたことであるかも知れないが、しかし豹一は案外に勁い心をもっていたためか、たとえば中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また、高等学校時代|鎰《かぎ》屋のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかったのである。それをいま情けないことに、ひょんな工合に銀子に恋情を感じたのは、なんとしたわけであろうか。
 だが、はっきりと気がつけば、豹一自身いまいましいことにちがいないこの恋情に就ては、細かしく説明しない方が、賢明かも知れない。だから大急ぎで述べることにするが、つまり豹一がふと見た銀子の痛々しく細い足の記憶が、土門の電話口でいきなり生々しく甦って来たせいではなかろうか。そしていうならば、そんな豹一の心の底に、母親と安二郎を結びつけて考えたときのあのちくちくと胸の痛くなる気持が執拗に根をはっていたのである。
 豹一は重い心で、窓硝子に顔をすりつけて外をながめた。しとしとと雪が降っていた。視線がぼやけた拍子に、だしぬけに感傷的になって来た。
 土門は例のいらいらした手つきで、煙草の端をちぎっていたが、ふいに言った。
「おい! そんなしんみりした顔をするなよ」豹一の顔を嬉しそうに覗きこんだ。
「雪を見てるんです」言いながら、遠いハーモニカの音をきくような気がふっとした。夏の黄昏の時間が、雪を見ている豹一の心を流れた。
「あははは……。雪を見てるというか? なるほど、東銀子に惚れたな」
 やっぱり見抜かれたかと、豹一は赧くなった。しかし、土門はもともと敏感な男だったが、いまは他人の心など計るような面倒くさいことはしなかった。土門がそんなことを言ったのは、じつは次の言葉を出すためのまくら[#「まくら」に傍点]に過ぎなかった。
「惚れても駄目でっせ。いまのおれの電話をきいたか? 東銀子はもうあかん。一眼この眼で見ればわかるんだ。今日の東銀子の踊り方を見た途端に、おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかとね。へ、へ、へ」土門の笑いは豹一の心をますます重くした。
「珈琲もう一杯のみましょう!」
「ああ、飲もう。よくぞ
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