いるのだと思ったぐらいである。
 編輯次長と社会部長が編輯長室へ呼ばれ、そして出て来た顔を見て、はじめて人々は、おや変だぞと気がついた。両人とも真蒼な顔をしていたのである。
「なんぞおましたか?」口の軽い連中がそう訊いたが、しかし、二人とも答えなかった。まさか、いま編輯長から「良え年してなにぼやぼやしてるねん。そんなこっちゃったら、もう新聞記者をやめなはれ」と言われて来たのだとは、長と名がついた手前でも言えなかったのだ。両人は、いまいましそうに、「土門の奴め!」と、唇を噛んでいた。
 じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃がしていたのである。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという、いまならさしずめ黙殺されるか、扱うにしても遠慮して小さく扱われそうな記事なのだが、当時はこんな記事が特種として、あらゆる新聞の三面に賑かに取扱われていたのだった。妙な言葉だが、キャバレエはなやかなりし頃であった。それに、村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になったという、いわば新聞の見出し通り、「問題の美貌女優」だった。「オリンピア」の支配人がそのネーム・ヴァリューに眼をつけるだけのことはあったのだ。ラウンド・サーヴィスするだけの報酬が、一晩何百円だと新聞に報ずるところも、満更誇張とは思えなかった。それほど有名だったのである。それを東洋新報だけが黙殺したとはなんとしたことであろうか。東洋新報はかねがねこの種の記事で売っており、おまけに「オリンピア」は大事な広告主である。よろしくたのみますと、わざわざ営業部からの依頼もあったのだ。
 編輯長が機嫌をわるくするのも、無理はなかったのだ。しかし、東洋新報ではなにもその特種をわざと黙殺したわけではなかったのだ。社会部長はちゃんと腕利きの記者を「オリンピア」へ派遣したのである。社会部長に手落ちはない筈だ。その旨編輯長に言うと、
「いったい、誰に行かせたんや」
「土門です」
「土門君をここへ呼びなはれ」
 しかし、土門はまだ出社していなかった。実は土門は昨夜写真班と一緒に「オリンピア」へ出掛けたことは出掛けたのだが、「オリンピア」の支配人が新聞記者のサーヴィスに飲み次第の饗応をしたので、よせばよいのにピエロ・ガールスの北山を電話で呼び寄せ、二人で飲みはじめると止らず、かんじんのインターヴィユはそっちのけで、到頭泥酔してしまい、今日は二日酔で休んでいたのである。土門がいないので、編輯長は自然次長と社会部長の両人に当り散らすより外に仕方がなかった。それでなくとも編輯長は土門を叱りたくはなかった。叱っても張りあいのない男だというより、やはり子飼の記者でありながら結局部長にしてやれなかった土門を叱りつけるのは、いわば情に於てしのびなかったのだ。それに、こんな大きな問題は、やはり責任を次長や部長に転嫁して置く方が適わしいのではないか。両人とも良い迷惑だった。ことに編輯長のとぼけた大阪弁も、「新聞記者をやめなはれ」というような言葉になると、冗談にいわれたのであったが、意外な効果を発揮した。彼等は土門の来るのを手ぐすね引いて待っていた。土門は良いとき休んだものである。
 編輯長は一通り怒りを通過させてしまうと、善後策を思案した。営業部からの抗議があってみれば、とにかく「オリンピア」のためにその記事をのせる必要がある。といって今からでは手遅れだ。結局、他の新聞と全然変った扱い方をするのだ。どの新聞でも、「オリンピア」に於ける彼女をインタヴィユしていたが、もはやそれでは二番煎じだから、「オリンピア」がカンバンになってからの彼女の尾行記をものするのだ。誰をその任にあたらしたものかと、編輯長は硝子扉ごしに編輯室のなかを物色した。
 ある者は机の上で夕刊用の原稿を書いている。ある者は電話を掛けている。ある者は新聞のとじこみを見ている。用事のない者は、ストーヴのまわりに集って、がやがやと雑談している。それらの顔をひとつひとつ見て行ったが、どれもこれも適任者と思えるものがなかった。ふと、隅の方に一人仲間はずれて固い姿勢で突っ立っている豹一の姿が目に止った。まるで、何ものかに向って身構えているような、いらいらした姿勢だったので、いやでも編集長の目を惹いた。その美貌にも注意を惹くものがあった。
(あの男誰やったかな?)
 忘れっぽい癖の編輯長は咄嗟には思い出せなかった。
 入社してから半月経っていたのだが、全くの見習記者に過ぎぬ豹一は、仕事らしい仕事も与えられず、ただ意味もなく毎日出社しているだけのことだった。だから編輯長はうっかりと豹一の存在を忘れていたのだった。ところが、いまよく見ると、豹一の印象は群を抜いて異常なものがあった。
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