のことが、妹をもたぬ豹一の心を思い掛けず遠く甘くゆすぶって来たのだった。夜汽車の窓を見る気持に似ていた。豹一は晩春の宵の生暖い風を頬に感じた。
「何故妹の奴封筒が買えなかったか知っているか?」不意に赤井が怖い顔をして訊いて来た。そして豹一の返事を待たずに、
「僕が妹の金を捲きあげてやったからだ」そう言って、にわかに赤井の顔が険しくなって来たかと思うと、不意に長い舌をぺろりと出し、
「うわあ!」とわけの分らぬ叫び声をあげた。驚いて豹一が見ると、赤井はフラフラダンスの踊子のように両手を妖しく動かせて、どすんどすんと地団太を踏みながら、長い舌をぺろぺろ出し入れしているのだ。そこが土の上ではなかったら寝ころんで暴れまわりかねない位のありさまだった。擦れ違う人々はびっくりした眼を向けていた。が、赤井の発作は直ぐ止んだ。そして、小売店、食物店、活動小屋、寄席などが雑然と並び、花見提灯の赤い灯や活動小屋の絵看板にあくどく彩られた狭くるしい京極通を歩いて行ったが、ふとひきつるような顔になると、
「どうも僕は三日に一度あんな発作が起って困るんだ」と言った。
「何か恥しいことを想い出した時だろう?」満更経験のないでもない豹一がそう言うと、
「そうだ。どうやら脳黴毒らしい」赤井は簡単にそう言い放ったが、直ぐ心配そうな顔になると、最近さる所へ「肉体の解放」に行ったが、とても汚ならしい女だったから、どうやらジフレスを貰ってもう脳へ来ているかも知れないと、しょんぼりした声で言った挙句、
「僕の青春はもう汚れているんだ!」と、これはわざと悲痛な調子で言った。豹一はそんな赤井の図太い生活にふと魅力を感じたが、僕の青春云々が妙に赤井の気取りのように思われたので、「心配する位なら、行かない方が良いんだ」と突っ離すような、冷かな口を利いた。すると赤井は、「そうだ。そうだ」と苦もなく合槌を打って、「僕は心配なんかしていないぞ。ジフレスがなんだ。そう容易く罹るもんか。昨日僕はちょっと医学書を覗いてみたが、脳へ来るのには五年や十年は掛るらしいんだ。僕の頭は未だ健全なんだ」自分で自分の言葉を打ち消した。
(赤井はえらい男だが、自分の行動を誇張して人に喋りたがるのが欠点だ。つまりデカダン振るのだ。俺なら黙って行《や》る)
豹一はそう思うと、はじめて自分と赤井との違うところが分ったような気がした。が、実は豹一も元
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