顔を見た途端、その気持が裏切られてしまったのだ。五月振りに、しかもああした事件があった後の出会いならば、もっと切ない気持がお互いに湧いた筈である。少くも、多鶴子は口も利けないほど切なかった。ところが、矢野はいけ洒蛙々々とした態度を見せた。多鶴子にはそう見えた。途端に、自分から逃げ出したかったのだと、多鶴子は思った。立話さえ憚からねばならぬ気持はわかる。しかし、それにしても、もう少し愛情の籠った態度を見せてくれてもよかりそうなものだと、後追い掛けた咄嗟の恨みだった。結局はじめからてんで愛情がなかったのだと、もうあとを追う気はしなかった。矢野に愛情がなかったと、思うと、多鶴子ははじめて自分が矢野を愛していたのだと、はっきりわかるような気がした。人気のためではない好いているからだった、――と、豹一に言った言葉もこの時の多鶴子の気持から押せば、満更弁解でもなかったわけだ。その証拠に、多鶴子はもう矢野のことを思い切らねばならぬと、思ったではないか。その瞬間の豹一は、どう見ても矢野よりも影が薄かった筈だ。と、同時にどんな醜男であるとしても、いくらかましに見えた筈だ。今夜「オリンピア」へ来てくれと、多鶴子がいったのも無理からぬことだった。
 なお、序でにいうならば、多鶴子に「オリンピア」へ行く決心をさせたのも矢野の後姿だった。女は失恋したときは、けっしてひとりきりにならないものだ。たとえ、心の苦しみを忘れるために旅行するにしても、誰かにその旨言ってからするのが普通である。
 ともかく、多鶴子は「オリンピア」へいつもの時間に現れた。佐古は多鶴子の顔を見ても、昨夜のことは全然知らぬ顔をするつもりだったが、多鶴子が現れると、
「おや、いらっしゃい」と、思わず言ってしまった。まるで、意外な人を迎えるような言葉だった。つまり、ひょっとしたら多鶴子は来ないのではなかろうかと心配していた気持を、うかつに見せたわけだった。
 十時頃、豹一はやって来た。多鶴子は当然来るものを待っていたという顔で出迎えたが、そんな風に思われたと知れば、豹一としてははなはだ面白からぬところだった。いそいそと出掛けて来たわけではなかったのである。
 まことに厄介な話だが、豹一は多鶴子のいいなり次第にのこのこやって来るということに、例によってひどくこだわっていた。行かねばならぬという理由がちっとも見つからぬのである。これ
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