には豹一は困った。ひそかに多鶴子に心を寄せているなどとは、ひとは知らず、この自尊心の強い男には、許しがたいことだった。理由が見つからねば、行くことを思い止った方が良いと、豹一は自分に命じたが、これははなはだ無気力な命令だった。その証拠に彼はそう命令してからでも、然るべき理由の発見に頭を悩ました。ふと、彼は矢野の顔を想い出した。縁なし眼鏡の奥からじろりと見たさげすむような眼。眼から眉へかけての濡れたようななまなましい逞しさ。
豹一はやっと理由を発見した(そうだ。あんな男に負けてなるものか。おれはあの女をものにしてみせるぞ!)
豹一の考え方はいつもこれだった。が、この時の考え方にはいくぶん嫉妬の気持もまじっていた。それだけに強かった。豹一はだしぬけに頭に泛んで来たこの考え方に従うことにした。これが、「オリンピア」へ行く口実になった。
そんな豹一の考えを知ったら、多鶴子はぞっとしたであろう。それとも、おかしいと思ったであろうか。しかし、豹一はそんな変な考えを鼻の先にぶらさげて多鶴子の前に現れたわけではなかった。
やっと口実が見つかってほっとしたというものの、しかし、多鶴子をものにせよと自分に課した義務というものは、二十歳の豹一にとっては随分重荷だった。彼はぶるぶる顫えながら、多鶴子の前に現れたのである。まるで吩咐られた通りにおやつを貰いに来た子供のように、多鶴子には見えた。だから多鶴子は随分好ましいと思い、粗末には扱わなかった。
役目柄、多鶴子はあちこちのテーブルへ挨拶に出むかなければならなかったが、その都度豹一に、
「ちょっと待っててね」と、言った。そして直ぐ戻って来て豹一の傍に坐るのだった。
そんな風にされるのは客のなかで豹一ひとりだったから、彼は随分よろこんで良いわけだった。ところが、彼はちっとも嬉しくなかった。例の義務を想い出していたからである。
(なにかしなければならない!)そう思うのだが、しかし、なにをすれば良いのか見当がつかなかった。口説くというような考えは、頭をかすめもしなかった。いろいろ考えたあげく、いつか喫茶店でやったように、手を握るということを思いつくのが関の山だった。結局それを決行しようとだしぬけに、決心した。豹一はそわそわしだした。
が、丁度良い工合にその時多鶴子の手は空いていなかった。多鶴子はボーイがわざとむかずに持って来た林檎を
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