子が、不意に顔色を変えて言葉をのみこんだ。真蒼な痙攣が多鶴子の横顔に来た。おやっと思った豹一の眼に、大丸の扉を押して出て来た男の姿が、なぜか止った。
バンドのついた皮の外套を短く着て、ゴルフ用のズボンを覗かせていた。縁なしの眼鏡の奥から、豹一をじろりとにらんだ。が、その前にその男は多鶴子の顔を見ていた。そして、あっという顔付きで立ちすくんでいたが、やがて固い歩き方で寄って来ると、
「暫く……。どうしてるの」と、多鶴子に言葉を掛けた。
「…………」多鶴子はハンドバッグの金具をパチンとしめなおした。かすかに手がふるえていた。
「新聞で見たよ、『オリンピア』に出ているんだってね? ――まあ、元気でやりなさい」豹一の方をじろりと見てから、もう一度多鶴子の顔を見た。多鶴子は、
「ありがとう」と、小さく言った。男は手をあげて、
「じゃ」行ってしまった。
「あ」多鶴子は靴の踵をちょっと動かしたが、あとを追うのを思い止った。そして、暫く立ちすくんでいたが、やがて物も言わずに歩き出した。
「誰ですか?」豹一はやっと訊いた。
「矢野さん」それっきり多鶴子は口を利かなかったから、豹一はいや応なしに、「私は矢野さんが好きでした」とさっき不二屋できいた多鶴子の言葉を取りつく島のない気持で想い出さされてしまった。なお、今しがた矢野さんが残して行った見下すような(――と豹一は思った――)一瞥を想い出した。
豹一は自分の表情をもて余した。多鶴子の足が急に早くなったので、瞬間少しは歪んだにちがいない表情をそれと気づかれるおそれがなくて、もっけの倖いだと思ったものの、多鶴子の足が早くなったのは、それだけ心が動揺している証拠だと、豹一にもその動揺がそのまま乗り移って来た。所詮心の平かな筈はなかった。
いくらか自惚れかけているところだけに、多鶴子の動揺は一層辛かった。それに情けないことには、豹一の眼から見て、矢野は想像以上に立派に見えた。寒い風も当らぬような顔で立去って行ったのではないか。豹一は自分が矢野の前で頗る影が薄かったと、思った。
多鶴子は黙々としていたので、豹一はそんな風に孤独な考えに耽った。
(矢野はおれがこの女の傍にいるのを見て、ちゃんちゃらおかしいと思っただろう)
嫉妬の気持はこうして、徐々に豹一の心にしのび込んで来た。豹一の心を惹きつけようという多鶴子のさっきからの無意識な努力
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