秋深き
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)齧《かじ》ると
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一応|隣室《となり》の
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医者に診せると、やはり肺がわるいと言った。転地した方がよかろうということだった。温泉へ行くことにした。
汽車の時間を勘ちがいしたらしく、真夜なかに着いた。駅に降り立つと、くろぐろとした山の肌が突然眼の前に迫った。夜更けの音がそのあたりにうずくまっているようだった。妙な時刻に着いたものだと、しょんぼり佇んでいると、カンテラを振りまわしながら眠ったく駅の名をよんでいた駅員が、いきなり私の手から切符をひったくった。
乗って来た汽車をやり過してから、線路を越え、誰もいない改札口を出た。青いシェードを掛けた電球がひとつ、改札口の棚を暗く照らしていた。薄よごれたなにかのポスターの絵がふと眼にはいり、にわかに夜の更けた感じだった。
駅をでると、いきなり暗闇につつまれた。
提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、
「お疲れさんで……」
温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。
こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く客もあるわけかとなにかほっとした。それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないことを知った。
右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。
しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、
「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」
あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。
私はことの意外におどろいた。
「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ直ぐ行けばいいんですか。宿はすぐ分りますか」
「へえ、へえ、すぐわかりますでやんす。真っ直ぐお出でになって、橋を渡って下されやんしたら、灯が見えますでござりやんす」
客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。
暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細くなった。汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑に落ちかねる振舞いといい、妙に勝手の違う感じがじりじりと来て、頭のなかが痒ゆくなった。夜の底がじーんと沈んで行くようであった。煙草に火をつけながら、歩いた。けむりにむせて咳が出た。立ち止まってその音をしばらくきいていた。また歩きだして、二町ばかり行くと、急に川音が大きくなって、橋のたもとまで来た。そこで道は二つに岐れていた。言われた通り橋を渡って暫らく行くと、宿屋の灯がぽつりと見えた。風がそのあたりを吹いて渡り、遠いながめだった。
ふと、湯気のにおいが漂うて来た。光っていた木犀の香が消された。
風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。
女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た。女の方が年上だなと思いながら、宿帳を番頭にかえした。
「蜘蛛がいるね」
「へえ?」
番頭は見上げて、いますねと気のない声で言った。そしてべつだん捕えようとも、追おうともせず、お休みと出て行った。
私はぽつねんと坐って、蜘蛛の跫音をきいた。それは、隣室との境の襖の上を歩く、さらさらとした音だった。太長い足であった。
寝ることになったが、その前に雨戸をあけねばならぬ、と思った。風通しの良い部屋とはどこをもってそう言うのか、四方閉め切ったその部屋のどこにも風の通う隙間はなく、湿っぽい空気が重く澱んでいた。私は大気療法をしろと言った医者の言葉を想いだし、胸の肉の下がにわかにチクチク痛んで来た、と思った。
まず廊下に面した障子をあけた。それから廊下に出て、雨戸をあけようとした。暫らくがたがたやってみたが、重かった。雨戸は何枚か続いていて、端の方から順おくりに繰っていかねば駄目だと、判った。そのためには隣りの部屋の前に立つ必要がある。私はしばらく躊躇ったが、背に腹は代えられぬと、大股で廊下を伝った。そして、がたがたやっていると、腕を使いすぎたので、はげしく咳ばらいが出た。その音のしずまって行くのを情けなくきいていると、部屋のなかから咳ばらい
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