の音がきこえた。私はあわてて自分の部屋に戻った。
咳というものは伝染するものか、それとも私をたしなめるための咳ばらいだったのかなと考えながら、雨戸を諦めて寐ることにした。がらんとした部屋の真中にぽつりと敷かれた秋の夜の旅の蒲団というものは、随分わびしいものである。私はうつろな気持で寐巻と着かえて、しょんぼり蒲団にもぐりこんだ。とたんに黴くさい匂いがぷんと漂うて、思いがけぬ旅情が胸のなかを走った。
じっと横たわっていると、何か不安定な気がして来た。考えてみると、どうも枕元と襖の間が広すぎるようだった。ふだん枕元に、スタンドや灰皿や紅茶茶碗や書物、原稿用紙などをごてごてと一杯散らかして、本箱や机や火鉢などに取りかこまれた蒲団のなかに寝る癖のある私には、そのがらんとした枕元の感じが、さびしくてならなかった。にわかに孤独が来た。
旅行鞄からポケット鏡を取り出して、顔を覗いた。孤独な時の癖である。舌をだしてみたり、眼をむいてみたり、にきびをつぶしたりしていた。蒲団の中からだらんと首をつきだしたじじむさい恰好で、永いことそうやっていると、ふと異様な影が鏡を横切った。蜘蛛だった。私はぎょっとした自分の顔を見た。そして思わず襖を見た。とたんに蜘蛛はぴたりと停って、襖に落した影を吸いながら、じっと息を凝らしていた。私はしばらく襖から眼をはなさなかった。なんとなく宿帳を想い出した。
いよいよ眠ることにして、灯を消した。そして、じっと眼をつむっていると、カシオペヤ星座が暗がりに泛び上って来た。私は空を想った。降るような星空を想った。清浄な空気に渇えた。部屋のどこからも空気の洩れるところがないということが、ますます息苦しく胸をしめつけた。明けはなたれた窓にあこがれた。いきなりシリウス星がきらめいた。私ははっと眼をあけた。蜘蛛の眼がキラキラ閃光を放って、じっとこちらを見ているように思った。夜なかに咳が出て閉口した。
翌朝眼がさめると、白い川の眺めがいきなり眼の前に展けていた。いつの間にか雨戸は明けはなたれていて、部屋のなかが急に軽い。山の朝の空気だ。それをがつがつと齧《かじ》ると、ほんとうに胸が清々した。ほっとしたが、同時に夜が心配になりだした。夜になれば、また雨戸が閉って、あの重く濁った空気を一晩中吸わねばならぬのかと思うと、痩せた胸のあたりがなんとなく心細い。たまらなかった。
夜雨戸を閉めるのはいずれ女中の役目だろう故、まえもってその旨女中にいいつけて置けば済むというものの、しかしもう晩秋だというのに、雨戸をあけて寝るなぞ想えば変な工合である。宿の方でも不要心だと思うにちがいない。それを押して、病気だからと事情をのべて頼みこむ、――まずもって私のような気の弱い者には出来ぬことだ。それに、ほかの病気なら知らず、肺がわるいと知られるのは大変辛い。
もうひとつ、私の部屋の雨戸をあけるとすれば、当然隣りの部屋もそうしなくてはならない。それ故、一応|隣室《となり》の諒解を求める必要がある。けれど、隣室の人たちはたぶん雨戸をあけるのを好まないだろう。
すっかり心が重くなってしまった。
夕暮近く湯殿へ行った。うまい工合に誰もいなかった。小柄で、痩せて、貧弱な裸を誰にも見られずに済んだと、うれしかった。湯槽に浸ると、びっくりするほど冷たかった。その温泉は鉱泉を温める仕掛けになっているのだが、たぶん風呂番が火をいれるのをうっかりしているのか、それとも誰かが水をうめすぎたのであろう。けれど、気の弱い私は宿の者にその旨申し出ることもできず、辛抱して、なるべく温味《ぬくみ》の多そうな隅の方にちぢこまって、ぶるぶる顫えていると、若い男がはいって来た。はれぼったい瞼をした眼を細めて、こちらを見た。近視らしかった。
湯槽にタオルを浸けて、
「えらい温《ぬ》るそうでんな」
馴々しく言った。
「ええ、とても……」
「……温るおまっか。さよか」
そう言いながら、男はどぶんと浸ったが、いきなりでかい声で、
「あ、こら水みたいや。無茶しよる。水風呂やがな。こんなとこイはいって寒雀みたいに行水してたら、風邪ひいてしまうわ」そして私の方へ「あんた、よう辛抱したはりまんな。えらい人やなあ」
曖昧に苦笑してると、男はまるで羽搏くような恰好に、しきりに両手をうしろへ泳がせながら、
「失礼でっけど、あんた昨夜《ゆうべ》おそうにお着きにならはった方と違いまっか」
と、訊いた。
「はあ、そうです」
何故か、私は赧くなった。
「やっぱり、そうでっか。どうも、そやないか思てましてん。なんや、戸がたがた言《ゆ》わしたはりましたな。ぼく隣りの部屋にいまんねん。退屈でっしゃろ。ちと遊びに来とくなはれ」
してみると、昨夜の咳ばらいはこの男だったのかと、私はにわかに居たたまれぬ気がして
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