、早々に湯を出てしまった。そして、お先きにと、湯殿の戸をあけた途端、化物のように背の高い女が脱衣場で着物を脱ぎながら、片一方の眼でじろりと私を見つめた。
 私は無我夢中に着物を着た。そして気がつくと、女の眼はなおもじっと動かなかった。もう一方の眼はあらぬ方に向けられていた。斜視だなと思った。とすれば、ひょっとすると、女の眼は案外私を見ていないのかもしれない。けれどともかく私は見られている。私は妙な気持になって、部屋に戻った。
 なんだか急に薄暗くなった部屋のなかで、浮かぬ顔をしてぼんやり坐っていると、隣りの人たちが湯殿から帰って来たらしい気配がした。
 男は口笛を吹いていたが、不意に襖ごしに声をかけて来た。
「どないだ(す)? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか」
「はあ、ありがとう」
 咽喉にひっ掛った返事をした。二、三度咳ばらいして、そのまま坐っていた。なんだかこの夫婦者の前へ出むく気がしなかったのである。
「お出《い》なはれな」
 再び声が来た。
 すると、もう私は断り切れず、雨戸のことで諒解を求める良い機会でもあると思い、立って襖をあけた。
 その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかった。
 女はどうぞとこちらを向いて、宿の丹前の膝をかき合わせた。乾燥した窮屈な姿勢だった。座っていても、いやになるほど大柄だとわかった。男の方がずっと小柄で、ずっと若く見え、湯殿のときとちがって黒縁のロイド眼鏡を掛けているため、一層こぢんまりした感じが出ていた。顔の造作も貧弱だったが、唇だけが不自然に大きかった。これは女も同じだった。女の唇はおまけに著しく歪んでいた。それに、女の斜眼《やぶにらみ》は面と向ってみると、相当ひどく、相手の眼を見ながら、物を言う癖のある私は、間誤つかざるを得なかった。
 暫らく取りとめない雑談をした末、私は機を求めて、雨戸のことを申し出た。だしぬけの、奇妙な申し出だった故、二人は、いえ、構いません、どうぞおあけになって下さいと言ったものの、変な顔をした。もう病気のことを隠すわけにはいかなかった。
「……実は病気をしておりますので。空気の流通をよくしなければいけないんです」
 すると、女の顔に思いがけぬ生気がうかんだ。
「やっぱり御病気でしたの。そやないかと思てましたわ。――ここですか」
 女は自身の胸を突いた。なぜだか、いそいそと嬉しそうであった。
「ええ」
「とても痩せてはりますもの。それに、肩のとこなんか、やるせないくらい、ほっそりしてなさるもの。さっきお湯で見たとき、すぐ胸がお悪いねんやなあと思いましたわ」
 そんなに仔細に観察されていたのかと、私は腋の下が冷たくなった。
 女は暫らく私を見凝めるともなく、想いにふけるともなく捕えがたい視線をじっと釘づけにしていたが、やがていきなり歪んだ唇を痙攣させたかと思うと、
「私の従兄弟が丁度お宅みたいなからだ恰好でしたけど、やっぱり肺でしたの」
 膝を撫でながらいった。途端に、どういうものか男の顔に動揺の色が走った。そして、ひきつるような苦痛の皺があとに残ったので、びっくりして男の顔を見ていると、男はきっとした眼で私をにらみつけた。
 しかし、彼はすぐもとの、鈍重な、人の善さそうな顔になり、
「肺やったら、石油を飲みなはれ。石油を……」
 意外なことを言いだした。
「えッ?」
 と、訊きかえすと、
「あんた、知りはれしまへんのんか。肺病に石油がよう効くということは、今日《きょう》び誰でも知ってることでんがな」
「初耳ですね」
「さよか。それやったら、よけい教え甲斐がおますわ」
 肺病を苦にして自殺をしようと思い、石油を飲んだところ、かえって病気が癒った、というような実話を例に出して、男はくどくどと石油の卓効に就いて喋った。
「そんな話迷信やわ」
 いきなり女が口をはさんだ。斬り落すような調子だった。
 風が雨戸を敲いた。
 男は分厚い唇にたまった泡を、素早く手の甲で拭きとった。少しよだれが落ちた。
「なにが迷信や。迷信や思う方がどだい無智や。ちゃんと実例が証明してるやないか」
 そして私の方に向って、
「なあ、そうでっしゃろ。違いまっか。どない思いはります?」
 気がつくと、前歯が一枚抜けているせいか、早口になると彼の言葉はひどく湿り気を帯びた。
「…………」
 私は言うべきことがなかった。すると、もう男はまるで喧嘩腰になった。
「あんたも迷信や思いはりまっか、そら、そうでっしゃろ。なんせ、あんたは学がおまっさかいな。しかし、僕かて石油がなんぜ肺にきくかち
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