四月馬鹿
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)泛《うか》び上らせて

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(例)[#地から1字上げ]
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     はしがき

 武田さんのことを書く。
 ――というこの書出しは、実は武田さんの真似である。
 武田さんは外地より帰って間もなく「弥生さん」という題の小説を書いた。その小説の書出しの一行を読んだ時私はどきんとした。
「弥生さんのことを書く」
 という書出しであった。
 その小説は、外地へ送られる船の中で知り合った人の奥さん(弥生さん)を、作者の武田さんが東京へ帰ってから訪ねて行くという話で、淡々とした筆致の中に弥生さんというひとの姿を鮮かに泛《うか》び上らせていた。話そのものは味が淡く、一見私小説風のものだが、私はふとこれは架空の話ではないかと思った。
 武田さんが死んでしまった今日、もうその真偽をただすすべもないが、しかし、武田さんともあろう人が本当にあった話をそのまま淡い味の私小説にする筈がないと思った。「私」が出て来るけれど、作者自身の体験談ではあるまい。「雪の話」以後の武田さんの小説には、架空の話を扱って「私」が顔を出す、いわゆる私小説でない「私」小説が多かったのではあるまいか。武田さん自身言っていたように「リアリズムの果ての象徴の門に辿りついた」のが、これらの一見私小説風の淡い味の短篇ではなかったか。淡い味にひめた象徴の世界を覗《うかが》っていたのであろう。泉鏡花の作品のようにお化けが出ていたりしていた。もっとも鏡花のお化けは本物のお化けであったが、武田さんのお化けは人工のお化けであった。だから、つまらないと言う人もあったが、しかし、現実と格闘したあげく苦しまぎれのお化けを出さねばならなかったところに、永年築き上げて来たリアリズムから脱け出そうとするこの作家の苦心が認められた。
「弥生さん」という小説はしかし、お化けの出し方が巧く行ってなかった。そういう意味では失敗作だったが、逞しい描写力と奔放なリアリズムの武器を持っている武田さんが、いわゆる戦記小説や外地の体験記のかわりに、淡い味の短篇を書いたことを私は面白いと思った。嘘の話だからますます面白いと思った。しかも強いられた嘘ではない。それに、外地から帰った作家は、「弥生さんのことを書く」というような書き出しの文章で、小説をはじめたりしない。「日本三文オペラ」や「市井事」や「銀座八丁」の逞しい描写を喜ぶ読者は、「弥生さん」には失望したであろう。私もそのような意味では失望した。しかし、読者の度胆を抜くような、そして抜く手も見せぬような巧みに凝られた書出しよりも、何の変哲もない、一見スラスラと書かれたような「弥生さんのことを書く」という淡々とした書出しの方がむずかしいのだ。
 私は武田さんの小説家としての円熟を感じた。武田さんもこのような書出しを使うようになったかと、思った。しかし、私は武田さんを模倣したい気はなかった。だから、今、武田さんの真似をした書出しを使うのは、私の本意ではない。しかも敢て真似をするのは、武田さんをしのぶためである。武田さんが死んだからである。してみれば、武田さんが死ななければこんな書出しを使わなかった筈だ。ますます私の本意ではない。

     一

 武田さんのことを書く。
 ――戎橋《えびすばし》を一人の汚ない男がせかせかと渡って行った。
 その男は誇張していえば「大阪で一番汚ない男」といえるかも知れない。髪の毛はむろん油気がなく、櫛を入れた形跡もない。乱れ放題、汚れ放題、伸び放題に任せているらしく、耳がかくれるくらいぼうぼうとしている。よれよれの着物の襟を胸まではだけているので、蘚苔《こけ》のようにべったりと溜った垢がまる見えである。不精者らしいことは、その大きく突き出た顎のじじむさいひげが物語っている。小柄だが、角力取りのようにでっぷり肥っているので、その汚なさが一層目立つ。濡雑巾が戎橋の上を歩いている感じだ。
 しかし、うらぶれた感じはない。少し斜視がかった眼はぎょろりとして、すれちがう人をちらと見る視線は鋭い。朝っぱらから酒がはいっているらしく、顔じゅうあぶらが浮いていて、雨でもないのにまくり上げた着物の裾からにゅっと見えている毛もじゃらの足は太短かく、その足でドスンドスンと歩いて行く。歩きながら、何を思いだすのか、一人でにやっと不気味な笑いを笑っている。笑うと、前歯が二本欠けているのが見える。若い身空でありながらわざと入れようとしないのは、むろん不精からだろうが、それがかえって油断のならない感じかも知れない。精悍な面魂《つらだましい》に欠けた前歯――これがふと曲物《くせもの》のようなのだ。いずれにしても一風変っている。
 変って
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