いるといえば、彼は兵古帯を前で結んで、結び目の尻尾を腹の下に垂れている。結び目をぐるりとうしろへ廻すのを忘れたのか、それとも不精で廻さないのか、いや、当人に言わせると、前に結ぶ方がイキだというのである。バンドは前に飾りがついているし、女は帯の上に帯紐をするし、おまけにその紐は前で結んでいるではないか、男の帯だって袴の紐のように前で結ぶべきものだというのである。
 しかし、いくら彼がイキだと洒落ているつもりでも人はそうは受け取ってくれない。折角前で結んだ帯も彼の汚なさの一つに数えてしまうのである。
 なぜそんなに汚ないのか。いうならば、貧乏なのである。彼は帝大の学生だった頃、制服というものを持たなかった。中学生の時分より着ているよれよれの絣の着物で通学した。袴をはくのがきらいだったので、下宿を出る時、懐へ袴をつっ込んで行き、校門の前で出してはいたという。制帽も持たなかった。だから、誰も彼を学生だと思うものはなかった。労働者か地廻りのように思っていた。貧しく育った彼は貧乏人の味方であり、社会改造の熱情に燃えていたが、学校の前でその運動のビラを配る時、彼のそんな服装が非常に役に立ったというくらい、汚ない恰好をしていたのである。
 もっとも、貧乏だけで人はそんなに汚なくなるものではなかろう。わざと汚なくしていたのは、お上品なプチブル趣味への反逆でもあった。彼は小説家だが、彼の書く小説にはつねに庶民が出て来た。彼自身市井の塵埃や泥の中に身を横たえて書いたと思われるような小説が多かった。たまたまブルジョワが出て来てもしかしそれはブルジョワを攻撃するためであった。乗物は二等より三等を愛し、活動写真は割引時間になってから見た。料亭よりも小料理屋やおでん屋が好きで、労働者と一緒に一膳めし屋で酒を飲んだりした。木賃宿へも平気で泊った。どんなに汚ないお女郎屋へも泊った。いや、わざと汚ない楼をえらんで、登楼した。そして、自分を汚なくしながら、自虐的な快感を味わっているようだった。
 しかし、彼とても人並みに清潔に憧れないわけではない。たとえば、銭湯が好きだった。町を歩いていて銭湯がみつかると、行き当りばったりに飛び込んで、貸手拭で汗やあぶらや垢を流してさっぱりするのが好きだった。だから一日に二度も三度も銭湯へ飛び込んだりする。そういう点では綺麗好きだった。もっとも、潔癖症やプチブル趣味の人たちは銭湯は不潔だというだろう。綺麗好きが銭湯好きにはならないと笑うだろう。つまり彼の銭湯好きは銭湯が庶民的だからだと、言い直した方がよさそうだ。浮世風呂としての銭湯を愛しているのかも知れない。ところが、それほど銭湯好きの彼が何かの拍子に、ふと物臭さの惰性にとりつかれると、もう十日も二十日も入浴しなくなる。からだを動かすとプンといやな臭いがするくらい、異様に垢じみて来るのだが、存外苦にしない。これがおれの生活の臭いだと一寸惹かれてみたら、どうだい、この汚れ方は、これがおれの精神の垢だよ、ケッケッケッと自虐的におもしろがったりしている。大阪で一番汚ない男だと、妙に反りかえったりしている。
 つまりは、その風体の汚なさと、彼という人間との間に、大したギャップがないのだ。いわば板についた汚なさだ。公園のベンチの上で浮浪者にまじって野宿していても案外似合うのだ。
 そんな彼が戎橋を渡って、心斎橋筋を真直ぐ北へ、三ツ寺筋の角まで来ると、そわそわと西へ折れて、すぐ掛りにある「カスタニエン」という喫茶店へはいって行ったから、驚かざるを得ない。「カスタニエン」は名前からしてハイカラだが、店そのものもエキゾチックな建築で、装飾もへんにモダーンだから、まるで彼に相応わしくない。赤暖簾のかかった五銭喫茶店へはいればしっくりと似合う彼が、そんな店へ行くのにはむろん理由がなくてはかなわぬ。女だ。「カスタニエン」の女給の幾子に、彼の表現に従えば「肩入れ」しているのである。
 もう十日も通っているのだ。いや、通うというより入りびたっているといった方が適当だろう。店があくのは朝の十一時だが、十時半からもうボックスに収まって、午前一時カンバンになるまでねばっている。ざっと十三時間以上だ。その間一歩も外へ出ない。いわば一日中「カスタニエン」で暮しているのだ。梃《てこ》でも動かぬといった感じで、ボックスでとぐろを巻いているのだ。しかし、十三時間の間、幾子と口を利くのはほんの二言か三言だ。あとは幾子の顔を見ながら、小説のことを考えたり、雑誌を読んだり、客と雑談したりしているのだ。客のなかには文学青年の入山もいる。なかなかの美青年で、やはり幾子に通っているらしい。いわば二人は心ひそかに張り合っているのだ。そしてお互い自分の方に分があると思っているのだ。
 幾子は誰からも眼をつけられていた。そしてそんな女らし
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