く、とくに誰か一人と親しく口を利くようなことはせず、通って来る客の誰ともまんべんなく口を利いていた。ところが、そんな幾子がどうした風の吹き廻しであろうか、その日は彼にばかし話しかけて来た。彼はすっかり悦に入ってしまった。
 夜になると、幾子はますます彼に話しかけて来て、人目に立つくらいだった。入山は憤慨して帰ってしまった。
 入山が帰って間もなく、幾子は、
「あたし、あなたに折入って話したいことがあるんだけど……。その辺一緒に歩いて下さらない」
 耳の附根まで赧《あか》くなった。彼は入山のいないことが残念だった。二人で「カスタニエン」を出て行くところを、入山に見せてやりたかった。
 彼は胸をわくわくさせ乍ら、幾子のあとに随《つ》いて出た。「カスタニエン」の主人には十分もすれば帰ると言って出たが、もしかしたら、永久に帰って来ないかも知れない。
 並んで心斎橋筋を北へ歩いて行った。
「話て、どんな話や」
「…………」
 幾子は黙っていた。彼も黙々としてあるいた。もう恋人同志の気分になっていた。だから、黙々としている方がふさわしい。
 異様に汚ない彼が美しい幾子を連れて歩いているのは、随分人目を惹いた。が、彼は人々が振りかえってみるたびに、得意になっていた。
 心斎橋の橋のたもとまで来ると、幾子は黙って引きかえした。彼も黙って引きかえした。が、大丸の前まで来た時、彼は何か言うべきであると思った。幾子は恥かしくて言えないのだから、自分が言えばそれで話は成立するわけだと思った。で、口をひらこうとした途端、いきなり幾子が、
「話っていうのはね。……あなた、入山さんとお友達でしょう?」
「うん。友達や」
 彼の顔はふと毛虫を噛んだようになった。
「あたし恥かしくて入山さんに直接言えないの。あなたから入山さんに言って下さらない?」
「何をや!」
「あたしのこと」
 幾子は美しい横顔にぱっと花火を揚げた。
「じゃ、君は入山が……」
 好きなのかと皆まできかず、幾子はうなずいた。
 彼は「カスタニエン」に戻ると、牛のように飲み出した。飲み出すと執拗だ。殆ど前後不覚に酔っぱらってしまった。
 カンバンになって「カスタニエン」を追い出されてからも、どこをどう飲み歩いたか、難波までフラフラと来た時は、もう夜中の三時頃だった。頭も朦朧としていたが、寄って来る円タクも朦朧だった。
「天下茶屋まで五円で行け!」
「十円やって下さいよ」
「五円だと言ったら、五円だ!」
「じゃ、八円にしときましょう」
「五円!」
「じゃ、七円!」
「行けと言ったら行け! 五円だ!」
「五円じゃ行けませんよ!」
「何ッ? 行かん? なぜ行かん?」
「行かんと言ったら行かん!」
「行けと言ったら行け!」
 そんな問答をくりかえしたあげく、掴み合いの喧嘩になった。運転手は車の修繕道具で彼の頭を撲った。割れて血が出た。彼は卒倒した。
 運転手は驚いて、彼の重いからだを車の中へかかえ入れた。
 そして天下茶屋のアパートの前へ車をつけると、シートの上へ倒れていた彼はむっくり起き上って、袂の中から五円紙幣を掴み出すと、それをピリッと二つに千切って、その半分を運転手に渡した。そして、何ごともなかったように、アパートの中へはいって行った。

     二

 この話を、私は武田さん自身の口からきいた。むろん武田さんの体験談である。武田さんが新進作家時代、大阪を放浪していた頃の話だという。
 昭和十五年の五月、私が麹町の武田さんの家をはじめて訪問した時、二階の八畳の部屋の片隅に蒲団を引きっぱなして、枕の上に大きな顎をのせて腹ばいのまま仕事していた武田さんはむっくり起き上って、机のうしろに坐ると、
「いつ大阪から来たの? 藤沢元気……? 大阪はどう? 『カスタニエン』という店知ってる?」
 などときいたあと、いきなり、
「――僕が大阪にごろごろしてた時の話だが……」
 と、この話をしたのである。
 そして、自分からおかしそうに噴きだしてのけ反らんばかりにからだごと顔ごとの笑いを笑ったが、たった一つ眼だけ笑っていなかった。そこだけが鋭く冷たく光っていた。
 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼だと思った。その眼は稍《やや》眇眼《すがめ》であった。斜視がかっていた。だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見透す眼であろうと、私は思った。作家の眼を感じたのだ。
 ちょっと受ける感じは、野放図で、ぐうたらみたいだが、繊細な神経が隅々まで行きわたっている。からだで掴んでしまった現実を素早く計算する神経の細かさ――それが眼にあらわれていると思った。
 その部屋には、はじめは武田さんと私の二人切りだったが、暫くす
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