私の文学
織田作之助

 私の文学――編集者のつけた題である。
 この種の文章は往々にして、いやみな自己弁護になるか、卑屈な謙遜になるか、傲慢な自己主張になりやすい。さりげなく自己の文学を語ることはむずかしいのだ。
 しかし、文学というものは、要するに自己弁護であり、自己主張であろう。そして、自己を弁護するとは、即ち自己を主張することなのだ。
 私の文学は、目下毀誉褒貶の渦中にある。ほめられれば一応うれしいし、けなされれば一応面白くない。しかし一応である。
 なぜなら、毀も貶も、誉も褒も、つねに誤解の上に立っていると思うからだ。もっとも、作家というものは結局誤解のくもの巣にひっ掛った蠅のようなものだ。人が自分を誤解するまえに、自分が最も自分を誤解しているのかも知れない。
 私がこれまで耳にした私に関する批評の中で、一番どきんとしたのは、伊吹武彦氏の、
「ええか、織田君、君に一つだけ言うぞ、君は君を模倣するなってことだ」
 という一言だった。
 その時、私はこう答えた。
「いや僕の文学、僕の今までの作品は、僕の任意の一点です」
 仮面をかぶりつづけていると、それが真実になる。任意の一点と思っても、しかし、はじめに設定した任意の一点は私の文学の構図を決定してしまうことになりがちだ。その一点をさけて、線を引くことが出来なくなる。私は私の任意の一点を模倣していたのだ。
 私は非常な人生浪費者だ。私の浪費癖は、もういまではゴシップになっているが、しかし私の浪費はただ物質だけでなく、私の人生、私の生命まで浪費している。この浪費の上に私の文学が成り立っている――というこの事情も、はじめは私の任意の一点であったのだが、いまではもはや私の宿命点みたいになってしまった。私はモトの掛った小説などはじめは軽蔑していたのだが、今では小説を書くのに、自分の人生や生命を浪費しているのではないかとさえ、思うくらいだ。すくなくとも私は小説を書くために、自分をメチャクチャにしてしまった。これは私の本意ではなかった。しかし、かえりみれば、私という人間の感受性は、小説を書くためにのみ存在しているのだと今はむしろ宿命的なものさえ考えている。
 こうした考え方は、誇張であろう。しかし、誇張でないいかなる文学があろうか。最近よんだ作品の中で、最も誇張でない秋声の「縮図」にさえ、私はある種の誇張を感じている。
 
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