私は目下、孤独であり、放浪的である。しかし、これも私の本意ではなかった。私は孤独と放浪を書きつづけているうちに、ついに私自身、孤独と放浪の中へ追い込まれてしまったが、孤独と放浪という任意の一点を設定した瞬間すでにその一点は、私にとっては宿命的なものだったのだ。だから、私は今私を孤独と放浪へ追いやった私の感受性を見極めてこれを表現しようと思っている。そしてまた、私をそうさせた外界というものに対決しようと思う。これらは、文学でのみ出来る仕事だからだ。この点、私は幸福をすら感じている。
私がしかし、右の仕事を終った時どうなるか。私が目下書きまくっている種類の作品を書きつくした時、私は何を書くべきか、私には今はっきりとは判らない。が、しかし私はその時から、私の本当の文学がはじまるのではないかと思っている。私が今、書きまくっているのは、実は私の任意の一点であり、かつ宿命的であったものから早く脱けだしたいためである。書きつくしたいのだ。反吐を出しきりたいのだ。
そのあとには何にも残らないかも知れない。おそるべき虚無を私はふと予想する。しかし私は虚無よりの創造の可能を信じている。本能を信じているのではない。私には才能なぞない。私ごとき才能のない人間が今日作家として立って行けるのは、文壇のレベルが低いからだ。この国では才能がなくても、運と文壇処世術で大家になれるのだ。才能のないものでも作家になれるのが、この国の文壇だ。だから、私でも作家になることが出来た。私はただ自分の菲才を知っているから、人よりはすくなく寝て、そして人よりは多くの金を作品のために使い、作品がかせぎ出した金は一銭も残そうとしなかっただけだ。私は新円と旧円のきりかえの時、二百円しか金がなかった。今でもそうだ。印税がはいってもすぐなくなってしまう。私は年中貧乏だ。しかし私は貧しい気持にはなりたくない。私は借金してでも私の仕事のためには贅沢な気持でいたい。私がせち辛くなれば、私の仕事もせち辛くなろう。これを私はおそれる。日本は敗戦と共にわびしく貧弱になったが、私は日本とともにわびしく貧弱になることを私の文学のためにおそれる。敗戦と共に小説が下手になったといわれることをおそれる。
私の今日の文学にもし存在価値があるとすれば、私は文学以外のことでは、すべてを犠牲にしている人間だという点にあるのではないかと思う。私は傲慢
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