昨日・今日・明日
織田作之助

      昨日

 当時の言い方に従えば、○○県の○○海岸にある第○○高射砲隊のイ隊長は、連日酒をくらって、部下を相手にくだを巻き、○○名の部下は一人残らず軍隊ぎらいになってしまった。
 彼は蓄音機という綽名を持ち、一年三百六十五日、一日も欠かさず、お前たちの生命は俺のものだという意味の、愚劣な、そしてその埋め合わせといわん許りに長ったらしい、同じ演説を、朝夕二回ずつ呶鳴り散らして、年中声が涸れ、浪花節語りのように咽を悪くし、十分毎にペッペッと痰を吐き散らしていた。が、彼は部下の顔を痰壺の代りに使うという厄介な病気を持っていた。もっとも、彼が部下の顔へ痰をひっ掛けるのは、機嫌のわるい時に限っていた。が、彼には機嫌の良い時は殆んどなかったから、彼の不幸な部下の中で「蓄音機の痰壺」になることを免れた幸福な兵隊は一人もいなかった。
 なお、彼は部下の顔を痰壺にする代りに、その痰壺の掃除をしてやるといわん許りに、彼の手を部下の顔へ持って行ったが、しかしその掃除のやり方は少し投げやりで乱暴であったから、かなり大きな音を立てた。彼は祭りの太鼓の音のように、この音が気に入っていたらしく、彼自身太鼓たたきになったような気になったのか、この音楽的情熱を満足させるために、鼻血が出るまで打ち続けるのであった。
 そして、この太鼓打ちの運動で腹の工合が良くなるのか、彼は馬のようにくらった。鯨のように飲んだのは勿論である。
 もっとも、彼は部下の余興を見なければ、酒が咽へ通らないという奇病を持っていたから、その鯨のような飲酒欲を満足させるためには、兵隊たちは常に自分の隠し芸をそれぞれストックして置く必要があった。
 余興の中で、隊長を喜ばせるのは、何といってもまず浪花節であった。
「浪花節をやれ、浪花節だ。浪花節をやらんか。何ッ? やれない。貴様のような奴は兵隊の屑だぞ!」
 そして、隊長は浪花節はおろか何一つ隠し芸のない彼の所謂「兵隊の屑」には、
「何にも出来んけりゃ、逆立ちして歩いてみろ!」
 と、命じたが、彼に言わせると、
「浪花節は上手な程よろしい。逆立ちは下手な程よろしい」
 隊で逆立ちの一番下手なのは、大学出の白崎恭助一等兵だったから、白崎は落語家出身で浪花節の巧い赤井新次一等兵と共に、常に隊長の酒の肴になっていた。
 おかげで、白崎は大学で覚えたことをすっかり忘れてしまうくらい、毎日逆立ちをやらされ、赤井は本職の落語を忘れてしまうくらい、毎日浪花節を唸らされて、いわば隊長の肴になるために、応召したようなものであった。
 しかし、彼等は隊長の酒の肴になるためにのみ応召したのではない。――というのは、つまり隊長に言わせれば、
「お前たちは俺の酒の肴になると同時に、俺の酒の肴の徴発もしなければならんぞ」
 という意味なのである。
 言いかえれば、赤井、白崎の二人は、浪花節、逆立ちを或いは上手に或いは下手に隊長の前でやって見せると共に、外出時間を貰って、鶏、牛肉、魚などの徴発をして来なければ、一人前の兵隊とは言えない、というわけである。
 その日、隊長は鶏のスキ焼きをしたいと思った。
 隊長がそう思ったということは、即ち地球から鶏が姿を消してしまわない限り、赤井、白崎の両名はその欲すると欲せざるとを問わず、唐天竺までも鶏を探し出して来なければならないということと同じである。
 そして、そのことはまた、もし二人が隊長の定めた時間内に、鶏を持参して帰らなければ、
「鶏の徴発が出来んとは、貴様はそれでも日本軍人か、いやしくも日本の軍人である限り、百姓どもは喜んで鶏を提出する筈だ。――さては貴様らは俺に鶏を食べさすまいとして、わざと徴発して来なかったのだな」
 という言葉の終らぬ内に、例の「痰壺の掃除」乃至「祭りの太鼓打ち」がはじまり、下手すると半殺しの目に会わされるだろうということと、全く同じことを意味するのである。二タス二ガ四ニ相等シイのと同じように「隊長ハ鶏ノスキ焼キガ食ベタイ」「二人ハ鶏ノ徴発ニ赴カネバナラヌ」「徴発出来ナケレバ半殺シニナル」という三つの意味は相等しいのである。
「二時間以内だッ」
 この命令に押し飛ばされて、二人はゴムマリのように隊を飛び出すと、泡を食って農家をかけずり廻った。
 ところが、二人はもともと万年一等兵であった。その証拠には浪花節が上手でも、逆立ちが下手でも、とにかく兵隊としての要領の拙さでは逕庭がなかった。ことに命令されたことをテキパキ実行できないというへまさ加減では、この二人に並ぶ者はない。おまけに兵隊にあるまじいことには、兵隊につきものの厚かましさが欠けていた。
 このような二人には、だから鶏の徴発は頗るむずかしかった。が、よしんば二人が要領のよい厚かましい兵隊であったところで、隊長の酒の肴を供出するような農民は昭和二十年の八月にはもういなかった。
「こんなスカタンな、滅茶苦茶な戦争されて、一時間のちの命もわからんようなことにされながら、いくら兵隊さんにでも、へいと言って出せるもんですか」
 そう言われると、二人は、
「自分たちもそう思います」
 と、うっかり(というより寧ろ本心から)そう答えてしまい、これでは手ぶらで帰るより仕方がなかった。
 しかし、聴けば、たった一軒、兵隊さんになら、どんなことでも喜んできくという「兵隊きちがい」の松尾という家があるという。
 二人は早速いそいそと松尾家を訪問した。ところが、
「鶏ですか。惜しいことをしましたよ。あればお安いことなんですが、うちに一羽残っていた奴を今さきつぶしてしまった所なんですよ。一足違いでしたよ」
 という返事である。
 しょんぼりと松尾家の玄関を出ると、
「どうせ、こんなことだろうと思った」
 と、白崎は赤井の顔を見ながら、苦笑した。白崎はかねがね、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるのだ」
 と、言っており、何か自分の運命というものに諦めをつけていたのである。
 やがて二人はとぼとぼ帰って行った。暮れにくい夏の日もいつか暮れて行き、落日の最後の明りが西の空に沈んでしまうと、夜がするすると落ちて来た。
 急いで帰らねば、外出時間が切れてしまう。しかし、このまま手ぶらで帰れば、咽から手の出るほどスキ焼きを待ちこがれている隊長の手が、狂暴に動き出して、半殺しの目に会わされるだろうことは地球が、まるい事実よりも明らかである。
 そう思うと、二人の足は自然渋って来た。
「撲られに帰るのに、あわてて帰る奴がいるものか」
 しかし急がねば遅れる。遅れたが最後無事には済むまい。
「脱走したくなるのはこんな時だなア」
 降るような星空を仰いで、白崎は呟いた。
「ほんまに、そやなア」
 赤井は隊の外へ出ると、大阪弁が出た。
「――しやけど、脱走したら非国民やなア」
「うん。しかし、蓄音機の前で浪花節を唸ったり逆立ちをしたり、徴発に廻ったりするのが立派な国民というわけでもないだろう」
「そない言ったら、そやなア」
「しかし、何だか脱走はいやだなア。卑怯だよ、第一……」
「ほな、撲られに帰るいうのやなア」
「いや」
 と、白崎は急に眼を光らせて、
「撲りに帰る」
「えっ、誰をや」
「蓄音機さ」
 白崎は古綿を千切って捨てるように言った。
「蓄音機に撲られるより、蓄音機を撲る方が気が利いてるよ。あの蓄音機め、こわしてやる。脱走よりは男らしいよ」
「えっ? 本まか?」
 赤井は思わず白崎の横顔を覗きこんだ。
「本まや」
 と、白崎も大阪弁をつかって、微笑した。
「――あの蓄音機は、士官学校を出て軍人を職業として選んだというただそれだけのことを、特権として、人間が人間に与え得る最大の侮辱を俺たちに与えながら、神様よりも威張ってやがる。おまけに、勝って威張るのは月並みで面白くないというので負けそうになってから、ますます威張り出しやがった。負けながら威張るのが、最大の威張り方だと、やに下っているんだろう。もっとも戦局がこうなって来れば、もう威張るよりほかに、存在の示し方がないと思ってるんだろう。――俺は兵隊として、蓄音機の侮辱を我慢するが、人間としてもう我慢できない。赤井、君は我慢できるか」
「いや、出来ん。あいつは、今日半日のうちに、俺のことを、七通りの呼び方で呼びやがった。「おい、屑!」「おい、蠅!」「おい、南京虫!」「おい、蛆虫!」「おい、しらみ!」「おい、百足!」「おい、豚!」――何をぬかしやがるんや。俺が豚やったら、あいつは、豚もあいつを見たら反吐をはく現糞の悪い奴ちゃ」
 ひょうきんな、落語家らしい言い方だったが、言っているうちに、赤井も次第に昂奮して来て、
「白崎はん、あんた蓄音機を撲るんやったら、俺も撲る! さア、行きまひょ。撲りに」
「よし、行こう!」
 二人は血相を変えて、隊へ帰って行った。そして、隊長の部屋へ、ものも言わずにはいって行った。
 が、隊長はいなかった。
「おい、隊長はどこだッ? 隊長はどこだッ? 蓄音機はどこだッ?」
「蓄音機は司令部へ行ったぜ」
 と、若い当番兵が答えた。
「今、司令部から電話掛って来て、あわてて駈けつけて行きやがった。赤鬼みたいに酔っぱらっとったが、出て行く時は青鬼みたいに青うなっとったぜ。どうやら、日本は降伏するらしい。明日の正午に、重大放送があるということだ」
「えっ? 降伏……? 赤鬼が青鬼になった……? ふーん」
 白崎は思わず唸ったが、やがて昂奮が静まって来ると、がっくりしたように、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるんだ」
 と、呟いた。

      今日

 復員列車といおうか、買い出し列車といおうか、汽車は震災当時の避難列車を思わせるような混み方であった。
 一本の足を一寸動かすだけでも、一日の配給量の半分のカロリーが消耗されるくらいの努力が要り、便所へも行けず、窓以外には出入口はないのも同然であった。
 その位混むと、乗客は次第に人間らしい感覚を失って、自然動物的な感覚になって、浅ましくわめき散らすのだったが、わずかに人間的な感覚といえば、何となくみじめな想いと、そして突如として肚の底からこみ上げて来る得体の知れない何ものかに対する得体の知れぬ怒りであろうか。
 そんな混雑した汽車の片隅に、白崎と赤井の二人は、しょんぼりと浮かぬ顔でうずくまっていた。
 汽車が沼津へ着いた時である。
「お願いです。この窓あけて下さいません?」
 焼跡らしい、みすぼらしいプラットホームで、一人の若い洋装の女が、おずおずと、しかし必死に白崎のいる窓を敲いた。
「窓から乗るんですか」
 と、白崎は窓をあけた。
「ええ」
 彼はほっとしたのだった。どこの窓も、これ以上の混雑をいやがって、乗客のために明けてやろうとしなかったのだ。
「大丈夫ですか。はいれますか。――じゃ、荷物を先に入れなさい」
 荷物を先に受け取って、それから窓にしがみついた女の腕を、白崎はひきずり上げた。びっくりするような柔かい感触だった。
 女の身体が車内へはいったのと、汽車が動きだしたのと同時だった。
「どうもありがとうございました」
「いや、しかし、勇敢ですな」
「でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……」
「しかし、驚きましたなア。もっともロミオとジュリエットは窓から……」
 と、言いかけて、白崎は赧くなっている女の顔を見て、おやっと思った。その美しさにびっくりしたのではない。いや、はにかんで眼を伏せると、長い睫毛が濡れたように瞼にかぶさって、まるで眠っているように見えるその美しさには、勿論どきんとしたが、しかし、それよりも。
「あのウ、失礼ですが、あなたはいつか僕らの隊へ、歌の慰問に来て下すった方ではないでしょうか」
「はあ……?」
 半分かしげた首で、すぐうなずいたが、急にぱっと眼を輝かせると、
「あッ、高射砲陣地、想い出しましたわ。あなたは……」
 彼女は「妻を娶らば才たけて、みめ美わしく情けあり、友を選
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