ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱……」という歌を歌い終った時、いきなり、
「今の歌もう一度歌って下さい」
 と叫んだ兵隊が、この人だと思いだしたのである。
 そのことを言うと、白崎は頭をかいて、
「いやア、実は僕は元来歌というものが余り好きじゃないんですが、あの歌は僕の高等学校の寮歌だったもんですから、ついなつかしくって……」
「あら、じゃ、学校は京都でしたの」
「ええ、三高です」
 と、いうと、なつかしそうに、
「私、京都ですの。沼津の田舎へ疎開していたのですけど、これから……」
「京都へ……?」
「ええ」
 じゃ、自分たちは大阪までだから、京都まで話が出来ると思うと、白崎は何かほのぼのとたのしかったが、ふと、赤井が二人の話ののけ者になっているのに気がついたので、
「ところで、あの時、あなたのあとで、落語をやった男がいるでしょう? ――この赤井君です」
 と、紹介した。
「どうぞ、御ひいきに――」
 ペコンと、ひょうきんな恰好で頭を下げたが、しかし、どこか赤井の顔は寂しそうだった。これから大阪へ帰っても、果して妻や子は無事に迎えてくれるだろうかと、消息の絶えている妻子のことを案じているせいかも知れなかった。
 そう思うと、白崎の眉はふと曇ったが、やがてまた彼女と語っている内に、何か晴々とした表情になって来た。
 だから、京都までの時間は直ぐ経ってしまった。
 山科トンネルを過ぎると、京都であった。そのトンネルの長さも、白崎にはあっという間に過ぎてしまう短かさであった。
 汽車の中は、依然として混雑を極めていた。彼女はやはり窓から降りなければならなかった。
「大丈夫ですか。降りる方がむつかしいですよ」
「でも、やってみます。荷物お願いします」
 彼女は窓の上に手を掛けて、機械体操の要領で足をそろえて窓の外へ出そうとした。
「あッ、危い!」
 彼女の手が窓からはなれようとした途端、白崎はうしろから抱きかかえた。オーバの上からだったが、彼女の肌の柔かさと、体温がじかに触れるような気がして、白崎の手はやけどをしたような熱さにしびれた。
 あわてて手を離した時、彼女の身体は巧くプラットホームの上へ辷り落ちていた。
「どうも、ありがとうございました」
「いやあ、――あ、荷物、荷物……」
 赤井と二人掛りで渡して、
「これだけですか」
「はあ、どうも……」
「じゃ、気をつけて、ごきげんよう」
「ごきげんよう、どうもいろいろと……」
 頭を下げたが、しかし彼女は立ち去ろうとしなかった。
「どうぞもう……。御遠慮なく……。市電がなくなるといけませんから」
 もう夜の十時十八分であった。
「でも、あと二分ですから、見送らせていただきますわ」
 時計を見て、言った。発車は十時二十分である。
「二分か。この二分の間に、俺は何か言わねばならない」
 と、白崎はひそかに呟いた。
「――しかし、何を言えばいいんだろう。いや、俺の言いたいことって一体何だろう」
 そう呟きながら、白崎はホームに立っている彼女の顔をしみじみと見た。その匂うばかりの美しさ!
「しかし、奇遇でしたね」
 と、思わず白崎は言った。
「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあった方がいい」
「あらッ、じゃ、私はそのいやな奴ですの?」
「いや、そんなわけでは……。いや、断じて……」
「べつに構いませんわ」
 白崎が狼狽しているので、彼女はふっと微笑した。すると、白崎はますます狼狽して、
「困ったなア。いや、けっしていやな奴では……。いや、全くいい道連れでしたよ。しかし、思えば不思議ですね。元来、僕は音痴で、小学校からずっと唱歌は四点で、今でも満足に歌える歌は一つもありません。その僕が声楽家のあなたと道連れになるなんて……。いや、実際ひどい音痴でしてね。だから歌は余り好きな方じゃなかったんですよ。いや、むしろ大きらいな方なんですよ」
 言っているうちに、白崎は、ああ俺は何てへまなことを言ってるんだろうと、げっそりした。だから、すぐ、
「しかし、今は歌が……」
 好きになりましたよと言い掛けた途端、発車のベルが鳴り、そして汽笛の響きが言葉を消してしまった。
 そして、汽車が動きだした。
「さよなら」
「さよなら」
 白崎は、ああ、俺は最後に一番まずいことを言ってしまった。俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいる! と、がっかりしながら、しかし何か甘い気持が残った。
 彼女の姿はやがて見えなくなった。
 白崎はやっと窓から首をひっ込めて、そしてひょいと足許を見た途端、
「おやッ! このトランクは……?」
「あッ、あの娘さんのや」
 と、赤井もびっくりしたような声を出した。
「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」
「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」
「それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな」
 白崎はそう呟いた。
 やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。
 ところが、帰ってみると、かつてのわが家の姿はもうそこになく、バラックの入口に「白崎」という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。
「やあ、うちもやられたんですか」
「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」
 それが、父一人子一人の、久し振りの挨拶だった。
「荷物はそれだけか」
「少ないでしょう?」
「いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……」
「そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ」
「ほう、そいつは殊勝だ」
「もっとも市電がなかったので、背中の荷を軽くしなければ焼跡を歩いて帰れませんからね」
「そんなことだろうと思ったよ。しかし、ついでにそのトランクもくれてやって来たのなら、なお良かったんだが……」
「いや、これはだめですよ。こりゃ僕のじゃありませんからね」
「じゃ、誰のだ」
「あはは……」
「変な笑い方をするなよ。あはは……。何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……」
「あはは……」
 父子は愉快そうに笑っていた。
 丁度その頃、赤井は南炭屋町の焼跡にしょんぼり佇んでいた。
 かつて、わが家のあったのは、この路地の中だと、さすがに見当はついたが、しかし、わが家の姿は勿論、妻や子の姿は、どこへ消えてしまったのか、まるで見当がつかなかった。
 眼の底が次第に白く更け、白い風が白く走る寒々とした焼跡に、赤井はちょぼんと佇んでいたが、やがてとぼとぼと歩きだした。が、どこへ行こうとするのか、妻子を探す当てもなく、また、今夜の宿を借りる当てもない。
 当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波駅の地下鉄の構内に向いた。
 そして構内に蠢いている浮浪者の群れの中にはいった赤井は、背中に背負っていた毛布をおろしてその中にくるまると、ごろりと横になった。すると、かたわらに顫えていた十位の女の子が、
「おっちゃん、うちも中イ入れて」
 と、寄って来た。
「よっしゃ、はいりイ。寒いのンか。さア、はいりイ」
「おおけに、ああ、温いわ。――おっちゃん、うちおなかペコペコや」
「おっさんもペコペコや。パン食べよか」
「おっちゃん、パン持ったはるのン?」
「うん。持ってるぜ」
「ああ、ほんまに。うちに一口だけ噛らせて」
「一口だけ言わんと、ぎょうさん(沢山)食べ!」
 ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、
「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」
 いじらしい許りの自己紹介だった。
「ふーん。ミネちゃんのお父つぁんやお母はんは……?」
 きくと、ミネ子はわっと泣きだした。
「判った、判った。もう泣きな、泣きな。ミネちゃんが泣くと、おっさんまで泣きとなる」
 しかし、なかなか泣きやまなかった。
「難儀やなア。もう泣きな。おっさんが今おもろい話聴かしたるさかい、涙拭いて聴きや」
 そして、小声で落語を語りだすと、ミネ子ははじめ面白そうに聴いていたが、しかし直ぐシクシクと泣きだした。赤井の声も次第に涙を帯びて来て、半泣きの声になり、もうあとが続かなかった。そんな心の底に、生死もわからぬ妻子のことがあった。
「おい、巧いぞ。もっとやってくれ」
 浮浪者の中から、声が来た。
「阿呆いえ。そんな殺生な注文があるか。こんな時に、落語やれいうのは、葬式の日にヤッチョロマカセを踊れいうより、殺生やぜ」
 言いながら、涕き声になると、ひしとミネ子を抱きしめて、
「ミネちゃん、おっさんの子になるか」
「なる。おっちゃん、ミネちゃんのお父ちゃんやな。ほな、ミネちゃんのお母ちゃんは……?」
「…………」
 赤井は鉛のように寂しくだまっていた。眼の奥がじーんと熱くなり、そして、かつての落語家の頬をポトリと伝う涙は、この子の母親になる筈の自分の妻と、そしてこの子のきょうだいになる筈の自分の子を、明日はどこへ探しに行けば良いのかという頼り無さだった。
 夜が明けると、赤井はミネ子と二人で、大阪中を歩きまわった。
 一方、白崎も何となくそわそわと探したい人があった。が、その人は京都に住んでいる声楽家だというだけで、まるで見当がつかなかった。
 そして、月日が流れた。

      明日

 大阪駅の前に、ずらりと並んだ靴磨きの群れ、その中に赤井はミネ子とささやかな靴磨きの店を張っていた。
 大阪中の寄席は殆んど焼けてしまっていたので、二流の落語家の赤井にはもう稼げる寄席はなかったし、よしんば寄席があっても、もう落語は語りたくなかった。だから、二人の口を糊するには、靴磨きにでもなるか、市電の切符を売って歩くかの二つだった。靴磨きは、隊におった時毎日上官の靴を磨かされていたので、経験がある。一つには、大阪で一番雑閙のはげしい駅前におれば、ひょっとして妻子にめぐり会えるかも知れないという淡い望みもあった。
 ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。
「へい」
 と、磨きだして、ひょいとその客の顔を見上げた途端、赤井はいきなり起ち上って、手にしていたブラシで、その客の顔を撲った。かつての隊長だったのだ。
「おい、何をするか。乱暴な」
 隊長は驚いたが、
「あッ、貴様は赤井だな」
 と判ると、いきなり胸倉を掴んだ。
「おや、やる気やな。面白い! 撲れるものなら撲ってみろ! しかし、言っとくが、もし、俺の身体に指一本でも触れてみやがれ……」
 赤井は、なんだ、なんだと集まって来た弥次馬を見廻しながら、
「この人達に、貴様が戦争の終った日に、何と何とをトラックで運ばせたか、一部始終ばらしたるぞ!」
 そう言うと、隊長は思わず真赧になって、唸っていたが、やがて、
「覚えとれ!」
 そして、そわそわと逃げるように立ち去った。顔に靴墨の跡を残したまま。
「阿呆! 貴様のような阿呆のこと、いつまでも覚えてられるか。あはは……」
 赤井はサバサバとした笑いを、久し振りに笑った。
 やがて、一日の仕事が終って、日が暮れると、赤井はミネ子の手をひいて、南炭屋町のわが家の焼跡に作った壕舎へ帰って行った。
 昼間の出来事で溜飲は下がったものの、しかし、夜の道は暗く寂しく、妻や子は死んでいるのか生きているのかと思えば、足は自然重かった。
 途中にあるバラックから灯が洩れ、ラジオの歌が聴こえていた。
「あ、ラジオが聴こえてる」
 と、ミネ子は立ち停った。歌は「荒城の月」だった。
 ミネ子のつきあいで聴いているうちに、
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