井はさすがに記憶があった。
「やア、その節はいろいろと……」
 赤井は応召前、佐川の世話で二三度放送したことがあった。
「もう、落語はおやりにならないんでやすか」
「へえ。もうさっぱりやめました。やる気になれまへんねッ」
「はあ、そうでやすか。しかし、惜しいですな。どうです、一度放送してみませんか。新作ものを一つ……」
 仕事に熱心な佐川は、新しい芸人を見つけると、貪欲な企画熱をあげるのだった。頼み方はおだやかだが、自分の企画に悦に入っている執拗さがあった。
「いや、お言葉はありがたく頂戴しまっけど、どうも、人を笑わすいう気になれまへんので……」
 赤井がそう断ると、傍で聴いていた白崎はいきなり、
「君、やり給え! 第一、僕や君が今日の放送であのトランクの主を見つけて、かけつけて来たように、君の放送を聴いて、どこかにいる君の奥さんやお子さんが、君に会いにかけつけて来るかも知れないぜ」
 そう言うと、赤井の眼は急に生々と輝いた。
「それもそやなア。ほな、一つ佐川さんにお願いしまひょかな」
「そうでやすか。じゃ、上へ行って打ち合わせましょう」
 赤井とミネ子が四階の演芸部の部屋へ上って行く
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