、その人は京都に住んでいる声楽家だというだけで、まるで見当がつかなかった。
そして、月日が流れた。
明日
大阪駅の前に、ずらりと並んだ靴磨きの群れ、その中に赤井はミネ子とささやかな靴磨きの店を張っていた。
大阪中の寄席は殆んど焼けてしまっていたので、二流の落語家の赤井にはもう稼げる寄席はなかったし、よしんば寄席があっても、もう落語は語りたくなかった。だから、二人の口を糊するには、靴磨きにでもなるか、市電の切符を売って歩くかの二つだった。靴磨きは、隊におった時毎日上官の靴を磨かされていたので、経験がある。一つには、大阪で一番雑閙のはげしい駅前におれば、ひょっとして妻子にめぐり会えるかも知れないという淡い望みもあった。
ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。
「へい」
と、磨きだして、ひょいとその客の顔を見上げた途端、赤井はいきなり起ち上って、手にしていたブラシで、その客の顔を撲った。かつての隊長だったのだ。
「おい、何をするか。乱暴な」
隊長は驚いたが、
「あッ、貴様は赤井だな」
と判ると、いきなり胸倉を掴ん
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