今日
復員列車といおうか、買い出し列車といおうか、汽車は震災当時の避難列車を思わせるような混み方であった。
一本の足を一寸動かすだけでも、一日の配給量の半分のカロリーが消耗されるくらいの努力が要り、便所へも行けず、窓以外には出入口はないのも同然であった。
その位混むと、乗客は次第に人間らしい感覚を失って、自然動物的な感覚になって、浅ましくわめき散らすのだったが、わずかに人間的な感覚といえば、何となくみじめな想いと、そして突如として肚の底からこみ上げて来る得体の知れない何ものかに対する得体の知れぬ怒りであろうか。
そんな混雑した汽車の片隅に、白崎と赤井の二人は、しょんぼりと浮かぬ顔でうずくまっていた。
汽車が沼津へ着いた時である。
「お願いです。この窓あけて下さいません?」
焼跡らしい、みすぼらしいプラットホームで、一人の若い洋装の女が、おずおずと、しかし必死に白崎のいる窓を敲いた。
「窓から乗るんですか」
と、白崎は窓をあけた。
「ええ」
彼はほっとしたのだった。どこの窓も、これ以上の混雑をいやがって、乗客のために明けてやろうとしなかったのだ。
「大丈夫ですか。はいれますか。――じゃ、荷物を先に入れなさい」
荷物を先に受け取って、それから窓にしがみついた女の腕を、白崎はひきずり上げた。びっくりするような柔かい感触だった。
女の身体が車内へはいったのと、汽車が動きだしたのと同時だった。
「どうもありがとうございました」
「いや、しかし、勇敢ですな」
「でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……」
「しかし、驚きましたなア。もっともロミオとジュリエットは窓から……」
と、言いかけて、白崎は赧くなっている女の顔を見て、おやっと思った。その美しさにびっくりしたのではない。いや、はにかんで眼を伏せると、長い睫毛が濡れたように瞼にかぶさって、まるで眠っているように見えるその美しさには、勿論どきんとしたが、しかし、それよりも。
「あのウ、失礼ですが、あなたはいつか僕らの隊へ、歌の慰問に来て下すった方ではないでしょうか」
「はあ……?」
半分かしげた首で、すぐうなずいたが、急にぱっと眼を輝かせると、
「あッ、高射砲陣地、想い出しましたわ。あなたは……」
彼女は「妻を娶らば才たけて、みめ美わしく情けあり、友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱……」という歌を歌い終った時、いきなり、
「今の歌もう一度歌って下さい」
と叫んだ兵隊が、この人だと思いだしたのである。
そのことを言うと、白崎は頭をかいて、
「いやア、実は僕は元来歌というものが余り好きじゃないんですが、あの歌は僕の高等学校の寮歌だったもんですから、ついなつかしくって……」
「あら、じゃ、学校は京都でしたの」
「ええ、三高です」
と、いうと、なつかしそうに、
「私、京都ですの。沼津の田舎へ疎開していたのですけど、これから……」
「京都へ……?」
「ええ」
じゃ、自分たちは大阪までだから、京都まで話が出来ると思うと、白崎は何かほのぼのとたのしかったが、ふと、赤井が二人の話ののけ者になっているのに気がついたので、
「ところで、あの時、あなたのあとで、落語をやった男がいるでしょう? ――この赤井君です」
と、紹介した。
「どうぞ、御ひいきに――」
ペコンと、ひょうきんな恰好で頭を下げたが、しかし、どこか赤井の顔は寂しそうだった。これから大阪へ帰っても、果して妻や子は無事に迎えてくれるだろうかと、消息の絶えている妻子のことを案じているせいかも知れなかった。
そう思うと、白崎の眉はふと曇ったが、やがてまた彼女と語っている内に、何か晴々とした表情になって来た。
だから、京都までの時間は直ぐ経ってしまった。
山科トンネルを過ぎると、京都であった。そのトンネルの長さも、白崎にはあっという間に過ぎてしまう短かさであった。
汽車の中は、依然として混雑を極めていた。彼女はやはり窓から降りなければならなかった。
「大丈夫ですか。降りる方がむつかしいですよ」
「でも、やってみます。荷物お願いします」
彼女は窓の上に手を掛けて、機械体操の要領で足をそろえて窓の外へ出そうとした。
「あッ、危い!」
彼女の手が窓からはなれようとした途端、白崎はうしろから抱きかかえた。オーバの上からだったが、彼女の肌の柔かさと、体温がじかに触れるような気がして、白崎の手はやけどをしたような熱さにしびれた。
あわてて手を離した時、彼女の身体は巧くプラットホームの上へ辷り落ちていた。
「どうも、ありがとうございました」
「いやあ、――あ、荷物、荷物……」
赤井と二人掛りで渡して、
「これだけですか」
「はあ、どうも……」
「じゃ、気をつけ
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング